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第4回

ひとSTORY

山部善次郎さん(前編)(ロック Vo.&Gt.)

山部善次郎さん 山部善次郎さん

通称 山善、伝説のミュージシャン。
俳優陣内孝則さんが TH eROCKERS時代に出した「可愛いアノ娘」(2003年映画ROCKERSの主題歌)、「キャデラック」「ハリケーン娘」は山善の作品。

音楽との出会い

楽器との出会いはカワイ楽器のエレクトーン教室。洋之(山善の本名)少年は、帰りのケーキだけを楽しみにしぶしぶ通ってみたものの、結局身にはならなかったらしい。

義務教育時代

博多区千代町出身。しかし教育熱心な両親のススメもあって教育大附属小学校へ入学。成績は体育と図工は5、残りは2。何故か?附属中には行かず、先生の勧めもあって地元の中学ではなく市立警固中学校へ。ちょうど母方の親戚が中央区今泉で自転車屋を営んでいた事もあり、寄留して千代町から警固へ3年間自転車通学をした。後から思うと先生のチョイスは正解で、後のミュージシャン山部善次郎誕生に欠かせない出会いが警固中にはあった。最初の出会いは花房光雄さん(後に「田舎者」ギター)。自転車を置かせてもらうついでに、毎朝花房宅でTV番組「ヤング720」を見てから登校。お気に入りはThe Doors(ドアーズ)。部活はバスケ部へ。

TVのモンキーズショーを見る為に早退し過ぎ、強制退部。そしてバレー部へ転部。そこで板東嘉秀さん(「田舎者」「The DRILL」後にSON HOUSEのギター)と出会う。他にもOBには姫野達也さん(TULIP)1年後輩には森山達也さん(THE MODS)、浅田孟さん(元SHEENA&THE ROKKETS)、大先輩には俳優の米倉斉加年さんまでもいる。板東さんは6人兄弟の末っ子で、1番上の兄は米軍基地キャンプで活躍する「ヴァイキング」のマネージャー。3番目の兄、武士さん(現在、中央区渡辺通のソウルバー JB’S BARオーナー)は10歳上でオーティス・レディング、サム&デイヴ、ウィルソン・ピケット、ジェイムズ・ブラウンなどのファンで、ソウルミュージックの洗礼を弟達に受けさせる格好となり、板東家に入り浸る日々が始まる。中3の時にはSON HOUSEの噂が聞こえてきた。

「俺たちもバンドをしよう!」とかなり盛り上がるも「バンドは不良がするもの」とPTAに阻止される。

「そして14歳の時、人生最大の事件が起こる。高圧電線の6600ボルトに感電し、左目と鼻を失った。

音楽活動開始

博多商業高校へ板東さんと共に入学。1年の時にバーゲンセンター(現ベスト電器)でおばあちゃんにギターを買ってもらい、ビートルズの“Let it be”を練習した。同じ頃、SON HOUSEのメンバーが日本楽器に出没すると聞きつけ、追っかけとして足繁く通う。ある日板東さんの長兄がメンバーの先輩とわかり、可愛がってもらうきっかけに。それ以来、SON HOUSEのメンバー、マコちゃん(鮎川誠さん)、篠山哲雄さん、石岡賢一さん(浦田賢一さん)この三人の家に仲間と一緒によく押しかけ、ROCKとは何ぞやをしっかりと叩き込まれる。そして板東さん(G)花房さん(G)加治たかのりさん(Bs)角野一人さん(Ds)と自分はボーカルで“Hey Jude”で「ライブ喫茶 照和」のオーディションを受け合格。

バンド名も決めてなかったが、自分のその日のダサい格好を理由に「田舎者」と名づけた。当時「照和」では先輩が後輩の面倒をみると言う羨ましいタテ社会が存在し、千葉和臣さん(後の海援隊)にはコード進行を習い、永隈晋一さん(後のSHOTGUN)には「ジャズのコード進行も勉強した方が良い」とアドバイスをもらい、甲斐よしひろさん(甲斐バンド)にも学ぶ事があり、当時45分のステージで3曲しか歌わずに絶妙なトークを繰り広げる武田鉄也さん(後の海援隊)からはトークを学んだ。相変わらずSON HOUSEの追っかけも続けていて、ある日柴山俊之さんの家に行かせてもらうまでこぎつける。柴山さんから須崎問屋街にあるロック喫茶POWER HOUSEに連れて行かれるなどし、今度はROCKの洗礼を受ける。

柴山さん曰く「福岡はフォーク、博多はROCKたい!」その後九州産業大学商学部経済学科に入学。何故なら、The Rolling Stonesのミック・ジャガーも経済専攻だったから。ちなみに板東さんはキース・リチャーズを見習って東京デザイナー学院へ入学。そしてSON HOUSEの初代BASS浜田卓さんから「ナイトビブ(深夜営業のダンスホール)に出ないか?」と仕事をもらう。父親にその事を伝えると「お前は音楽とか絵とかやって、麻薬の運び人でもなる気か!」と激怒され家出を決行し、しばらく浜田さん宅に居候させてもらった。

手術

話は戻るが、14歳の事故以降は毎日顔にガーゼを付けての生活。九州大学病院の整形外科では手術が出来ないと言われ、東京都千代田区の飯田橋(当時)にあった東京警察病院まで通う事に。入院当時、三億円事件や三島由紀夫氏が割腹自殺を遂げた三島事件などが次々と起こり、世間が大騒ぎしていたまさにその時だった。そして手術への恐怖心と仲間と数週間も離れる寂しさに耐えきれなかったのだろう、まもなく彼に異変が起き、鬱症状に悩まされる事になった。

20歳の頃躁鬱病を再発。ここから「奇行」と呼ばれる、山善お決まりの伝説を生み出す「躁状態」との付き合いが始まる。最初の手術から5~6年の間、全身麻酔を伴う25回の手術は繰り返された。「もうガーゼのままで良い。」そう諦めかけていた頃、父が桂小金治司会のTV番組「それは秘密です!!」を見て、ある女性が事故で欠損していた耳を、シリコン製の皮膚で再生したのを知る。大変感動し、「息子にも!」と翌日その執刀医に会いに行き、目の手術と共にシリコン製の鼻を装着する事になる。見た目が変わった事は学生時代の友人には好評だったが、音楽仲間や周りからの評価は賛否両論だった。

山部善次郎、誕生!

そして21歳の頃、ふと思った。「14歳で一命をとりとめて、今生きているのは皆のお陰だ。善を返さないと!」こうして「山部善次郎」と名乗る事にした。

バンドは「田舎者」の後、「博多テディー・ボーイズ」「THE SMILE」と名前を変え、「THE DRILL」からはイギリスのパンクに影響を受け、パンクバンドとして活動。福岡女学院短大(通称ミッション)の学祭からオファーを受けていたが、福岡大学学園祭で石投げ事件を起こした時、ちょうど目撃してしまったミッションサイドから丁重に断られる結果となる。その後、初心に戻る気持ちでギター1本で照和に1年間出演。‘79年には山善&博多パラダイス※結成。くすミュージックの有森さんが山善を気に入って柳ジョージのプロデューサーに推薦し、当時志免町にあった有住さん経営の「19(ワンナイン)スタジオ」で10曲を録音するも納得いかず白紙に戻した。その後西中洲の「不思議屋クラブ」で弾き語りをしていた時、鮎川夫妻と写真家のボブ・グル―エン(ジョン・レノン、イギ―・ポップ、パティ・スミス、ラモ―ンズ、SHEENA&THE ROKKETSらを撮影した事で有名)がひょっこり遊びに来、しきりにレコードを発表するようアドバイスされた。しかし鮎川さんに言われても決断を変える事はなかった。
※山善&博多パラダイス(Vo.山部善次郎 G.野津昌彦 G.小峰勇次 B.中島勝弘 D.七田義博)(敬称略)

無活動期間①

善次郎と名を変えた本人の志とは裏腹に、奇行はエスカレートし、「悪次郎」に変貌する事もしばしあった。音楽に挫折した時期も重なって、父の知合いが経営する愛媛県松山市の製紙工場へ修行に行く事に。松山に行ってすぐ、TH eROCKERSの陣内さんから「“キャデラック”をデビューアルバムに使って良いですか?」とお伺いがきたが「どうぞ。」と言った位の気持ちだった。1年後、今度はTHE MODSデビュー報告の葉書が森山さんから届くが、山善の心は全く動く事はなかった。福岡へ戻り、父の紙問屋で4年間真面目に働いたが、「何かが違う」と日々思っていた矢先、ラジオから流れてきたTHE ACCIDENTS(アクシデンツ)の曲を聞き、やっとミュージシャン山部善次郎が眠りから覚めた。(後編につづく)

関連リンク

山部"YAMAZEN"善次郎『青い影』動画(アコースティックバージョン)http://www.youtube.com/watch?v=mtCZRlU-a88

山部"YAMAZEN"善次郎OFFICIAL WEBSITE 6600V http://yamazen.webnode.jp/

文:MARI OKUSU 2013.1.26掲載