山部善次郎さん(後編)(ロック Vo.&Gt.)| 福岡のライブ情報検索サイト 音ナビ隊♪

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第4回

ひとSTORY

山部善次郎さん(後編)(ロック Vo.&Gt.)

山部善次郎さん 山部善次郎さん似顔絵

音楽再開とレコード発売

'84年音楽活動復活。スポーツセンター(現ソラリア)で“Jumping Jam”と言う大きなイベントの開催が予定されていた。出演バンドは博多パラダイス、おっしょい、FULL NOISE(フルノイズ)、THE GODZILLA(ゴジラ)他。この時山善は「何で俺が呼ばれてないとや?」と憤慨し、飛び入りでフルノイズのステージに乱入。このイベントは後日2枚組ライブアルバムとして発売されたが、ル―スターズのプロデューサー柏木省三氏(元SON HOUSEのマネージャーで昔からの知合)に言って、スタジオ録音した曲“HEY HEY STOP”を無理矢理入れてもらう。これが事実上、山善として公に出た初のレコード盤となる。

‘85年ボーダーラインがバックアップし、山善&MIDNIGHT SPECIAL※1としてインディーズで1stシングル“キャデラック”を発売。その翌年の第2回“Jumping Jam” には正式メンバーとしてオファーが来たが、躁状態で歌わずパフォーマンスのみで出演。その後、渕上レコーディングスタジオで録音された1stアルバム“DANGER”を山善&DYNAMITE※2として発売。’88年にはTHE MODSのアルバム“EASY COME EASY GO”にバックコーラスとハープで参加。‘89年はHEACON BASEで大喪の礼の日に石橋夫妻と3人だけで歌入れし、昭和から平成にかけて完成した2ndアルバム“NATURALLY”をアナログ盤・CD盤同時発売。そして当時キャプテンレコードのプロデューサー後藤昌彦氏(元THE MODS、THE ACCIDENTSのギターで後にX JAPANのHIDEのプロデューサー)が東京発信でインディーズアルバムを出す為にロックアーティストを探していた時で、LIVEハウスBe-1西本氏を通して山善のアルバムを作りたいとオファーが来る。東京のフォニックスタジオで山善バンド※3とサポートでキーボードの石井啓介さん(ベンチャーズのサポート経験もある元マグネットブラザーズ)、ハープ中野茂樹さんでレコーディングし’90年“CRAZY TOWN”発売。

※1 :山善&MIDNIGHT SPECIAL(Vo.山善 G.坂東嘉秀 G.石橋三喜彦 B.穴井仁吉 D.池畑潤二)
※2 :山善&DYNAMITE(Vo.山善 G.坂東嘉秀 B.穴井仁吉 D.角野一人)
※3 :山善バンド(G.曽我浩三 G.行徳伸彦 B.正木和男 D.上村司)
(敬称略)

メジャーデビュー!

そしてついに’91年にはコロムビアレコードから初のメジャーアルバム“山善フォークジャンボリー”も発売決定!条件は山善がフォークのカバーを歌う事。エグゼクティブプロデューサーは麻田浩氏と飯塚恒夫氏で録音は渕上レコーディングスタジオで行われた。しかしこの時メジャーの凄さ、厳しさを思い知らされる。朝10時~夕方4時まで一週間毎日コロムビア本社で雑誌や新聞社からの取材の嵐。夜は隙間の時間を作ってプロモーションビデオ撮影。発売してからはNHKでは「フォーク歌手、山部善次郎さん!」と紹介されたり、プロモーションで地方を回ってもROCKシンガーとしてではなくフォーク歌手として質問が殺到し、マスコミに作り上げられた自分の虚像に頭を悩ませる事になる。やっと福岡へ戻ってきた時には既に心はボロボロで、この時メジャー活動に対するやる気が失せてしまった。

それからのCD音楽活動

’94年“CHAMELEON MAN”発売。これはくすミュージックがCD販売事業を始めるにあたって九州の人気アーティストを選出していた時の物。(この時深町健次郎氏の“アコースティックス“のCDも発売された。) “TROUBLE MAKER” はエジソンレコードから発売。この時の山善は躁状態のピークの為ぶっ飛んでいてドラムも自分で叩いている。まさにトラブルメーカー。しかしこのCDはヨーロッパのインディーズレコードから引き合いがあるらしい。同じ年“10YEARS AGO EARLY ”発売。これは昔、須崎にあったロック喫茶POWER HOUSEで‘74年に鮎川さんと繰り広げたJAMセッションを収めたお宝の一枚。(メンバーは鮎川さん、山善の他に板東さん、花房さん、角野さん)また同じ頃、アサヒビールが発売した地ビール「博多蔵出し」のCM(草刈正雄さん出演)で山善の曲「チャンス」が流れる事に。ちょうどニューヨークへ行っていた間に決まった話で帰ってから報告を受け大変驚く。

“Hakata Teddy Boys 74”発売。‘01年には“Another Side Of YAMAZEN”初めての試みで全曲打ち込み。リズムが文字通り機械的で歌入れの時に大変な思いをした。経験してわかった事だが、音楽の中でも山善には人の温かみが必要なのだろう。同年“MUSIQUE”(ムシカ~スペイン語で音楽と言う意味)はキーボードの石井啓介氏プロデュースで桜坂のSTAFF(社長の谷村与志雄さんは元「あかんべえ」のギターで照和の大先輩。)のリハーサルスタジオで録音。この部屋は鏡張りで音が反響し雑な録音にはなっているが16の色んな曲が盛りだくさんでラフな感じで楽しめる1枚。’04年には“DANGER/キャラック”を石井啓介氏のレーベル「セントラルCD社」から発売。“STAND UP”は50歳に向けての意気込みを形にした代表曲「俺の影」も含まれているROCK’N ROLLアルバム。‘06年“GIFT”はスマイリー原島氏(元THE ACCIDENTS)の目に止まり東京のレコード会社「ディスカス」から発売。陣内孝則監督の映画「ROCKERS」の主題歌「可愛いアノ娘」のセルフカバーを含め、ドラムは元SON HOUSE坂田紳一氏を迎え13曲を録音。

’08年には“FULL HOUSE”をリリース。東京在住の義弟TAD三浦よりブルースバンドTHE BLUES FELLOWSの立ち上げ。北九州・久留米・広島・福岡をツアーで回る。そしてスタジオ野蛮の大石氏から日本語によるBLUESのCD化の話が持ち上がった。只今、山善&MIDNIGHT SPECIALとして25年ぶりに制作中の新作6曲入りCDも発売予定。(発売日未定)全国の山善ファンも首を長くして待っている事だろう。

家族

話は前後するが、32歳の時に結婚をし、2人の男の子も授かる。歌を歌っていた妻はレコーディングやLIVEのサポートもしてくれた。しかし幸せな家庭の筈が、そうはいかなくなってきた。躁鬱病がひどくなり、家庭生活にも支障をきたしてきたのだ。何度か入院し、家族はその度に頻繁に面会に来てくれた。治療に取り組むよう何度も応援もしてくれた。しかし躁鬱病を自覚せず、真剣に向き合おうとしない山善を残して、家族は家を後にした。家族と離れる事は望んでいなかった。しかしある時小1の息子を見て「こいつらはやれる。」と信じられる瞬間があった。「一生は一回しかない。俺は歌を歌っていく。」

無活動期間②

捨てる神あれば拾う神あり。現在の妻久理子さんと劇的な出会いをする。「あなたはROCKだけじゃなくて絵も描くんだってね。私の周りには芸術家がたくさんいるけど、あなたがどんな絵を描くのか見せて!」と言って久理子さんは山善に作品を持って来させた。以前発売したレコードジャケット『NATURALLY』『DANGER』など2点。「良いじゃない!個展やろうよ!!」久理子さんが大事にしていた母のパリ土産の道具を一週間で使い切り、油絵の作品も増えていった。

音楽再開

体調の回復はあまりにもほんの少しずつ。(躁鬱病の場合、決して焦ってはいけない。)「音楽や絵をやったら良い。」ROCKに否定的だったあの父が言い出した。19の時の家出の理由を忘れたかのように。病院も幾つか変わった。最終的に辿り着いたのは宗像病院の長谷川先生。長谷川先生と出会った頃、アメリカのROCK’N’ ROLLシンガー、Bo Diddley(ボ・ディドリー)のオープニングアクトの話があった。引き受けるも体調は絶不調、焦りから不眠に。公演日の一週間前に自ら入院を申し出るが、入院しても焦りは解消できずにいた。同年代の長谷川先生は山善にこう言った。「ロックンロールの神様に対してそんな風に望んで良いんですか?」その時やっと山善は目が覚め、このやり取りがきっかけでみるみる体調は回復した。長谷川先生との出会い、相性も手伝って、山善自身も病気と上手い付き合い方が出来るようになっていった。

山善からの提言

「躁鬱病は主治医との信頼関係と本人の前向きな努力で結果に大きな違いが起きる。もし躁鬱病で悩んでいる人がいたら、まずはROCK’N’ ROLL Dr.山善に会いに来い!相談に乗ってやる!」

山部善次郎画伯誕生!

個展の為の作品の中から久理子さんの提案で、幾つかの選考に応募した。ご存知の方も多いと思うが、福岡県展や朝日新聞社賞、田川英展への入賞歴がある。これから先の絵の目標について尋ねると「賞やら、別に目指してないよ。たまたま出したらとれただけ。」山善に言わせると「音楽と絵は似とうけど、スピーカーで言えば俺の頭がアンプで、レフトとライトのような違いはあると。音楽はある部分、共演者との「協調」から起こるフラストレーションもある。でも化学反応の面白味もあるけどね。反対に絵は1人でやる事やけん、何の制約もない。それは音楽で自分自身を抑えた心の傷を癒す作業でもあるけど、また別の戦いでもあるね。」'94年に一回目の個展を開催して、現在まで10回を数える。個展の際は訪ずれたミュージシャン達と作品の前でLIVEセッションが行われ、それが個展の恒例行事となっている。

そしてこれから

「息子さんも音楽なさってるんですか?」唐突に質問してみた。「いや~、反面教師やね。音楽はせんで真面目に働きよう。もう25と26よ。」遠くを見つめる山善にこれからの事も尋ねてみた。

「2年に一度の絵の個展と定期的なCDの発売とツアー活動」と即答。ソロのアコースティックLIVEの他にも、馴染みの仲間とやる(※敬称略)『山善&Midnight Special』(板東嘉秀(G)石橋三喜彦(G)穴井仁吉(B)池畑潤二(D))『YAMAZEN&Blues Fellows』(TAD三浦(G&Vo)ナガサキスリム(Harp&Vo)勝野真二(B)JUSTINe 小川(D&Vo))『YAMAZEN&BEGATTA』( 白井哲哉(B)白井俊哉(G)川嶋一秀(D))のLIVEも予定されていて、今年2013年6月には大阪でJazz Bandとやる『山善 Jazzを歌う』も既に決定。東北でのLIVEも予定されている。そして現在レコーディング中の6曲入りCDも発売予定。(発売日未定)全国の山善ファンも首を長くして待っている事だろう。具体的ではない夢もあるのか尋ねてみたくなり「ぶっ飛んだ夢は何かありますか?」と質問し直した。「映画に出てみたいね~。Tom Waits(トム・ウェイツ)やらIggy Pop(イギ―・ポップ)やらもしよろうが!それと自叙伝も書きたいね~!」楽しそうな声で答えが返ってきた。映画館の大きなスクリーンで、3D以上の迫力を持った山善の姿を観られる日も近いかもしれない。

※ここだけの話、昨年から撮っている山善のドキュメンタリー映画『6600V』が今年中に封切りになる事が決定しているとか・・・。そう言う事で、夢はドキュメンタリーではなく、演技する映画。

終わりに

インタビューが終わり、山善はそこにいた人々の為にアコースティックギターを持って2曲歌ってくれた。山善自身が日本語訳をした"青い影"と"You've Got A Friend"。特に"You've Got A Friend"の歌詞は直前まで聞いていた山善の人生と重なり、心にしみてきた。

「冬が終わり、春が来る。夏が過ぎ秋が来て、どんな時でも君は友達。」

山善の周りには、何が起きてもいつも山善を愛してくれる友達がいる。見かけとは違い、繊細で寂しがり屋な山善に、友達そして音楽、絵は本当に必要不可欠なのだとあらためて感じた。

関連リンク

YAMAZEN&THE BLUES FELLOWS feat.TAD三浦 動画「少しだけ優しく」http://www.youtube.com/watch?v=U_UEWUO8eYg

山部"YAMAZEN"善次郎OFFICIAL WEBSITE 6600V http://yamazen.webnode.jp/

文:MARI OKUSU 2013.2.3掲載