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第21回

ひとSTORY

岩崎大輔さん(ピアニスト 作曲・編曲家)[前編]

岩崎大輔さん(ピアニスト 作曲・編曲家)[前編] 岩崎大輔さん(ピアニスト 作曲・編曲家)[前編]

小学生時代”天才少年”とマスコミを賑わせた青年は、アメリカ留学から帰国後、キー局のドラマの音楽監督などに大抜擢。誰もが羨む活躍の最中に故郷へ戻り、モチベーションを維持したまま活動する伝説のピアニスト。その後も福岡市文化賞受賞など、活躍は続く。

今回は福岡を拠点に世界と繋がる岩崎大輔さんのインタビューに加え、エピソードを良く知る数名の方の話も織り交ぜながら、、、。

生い立ち

福岡市出身。2歳上の姉と二人兄弟。母は85歳でつい最近まで現役のピアノ教師だった。若い頃はタンゴや映画音楽など多様なジャンルを好んで聴き、絵描きや声楽家を目指すなど、広く芸術に憧れを持っていた。その母から5歳の時にレッスンを受け始め、影響でクラシック、ポピュラーなど様々なジャンルを聴いて育つ。当然小さい頃から岩崎家にはピアノがあり、レコードが買えないなど音楽に関して我慢した記憶はない。また息子がピアニストになるのは母の夢でもあり、その事に人生を捧げたと言っても過言ではないだろう。

小学校時代

福岡市立花畑小学校入学。5年生で既にJAZZを演奏。そして耳で聴いた曲を、「瞬時に伴奏付で演奏する少年」と話題になり、テレビ、ラジオに多数出演する。中村八大氏とも縁があり、将来へのアドバイスと共に太田幸雄氏(美空ひばりのステージやレコーディングに関わり、帰福後は太田幸雄とハミングバーズのリーダーでもあったピアニスト)を紹介される。また当時ウィーン国立音楽アカデミー留学から帰国したばかりの福田伸光氏に出会い、高校時代までクラシック音楽を師事し、音楽の幅広さを学んだ。

ピアニストデビュー

福岡市立花畑中学校入学。明治生命ホールで「岩崎大輔ポピュラーピアノリサイタル」を開催したのは15歳の時。当時最年少と言われたピアニストデビュー。また 「中学時代」(学年ごとに毎月発行される雑誌)などに「天才少年」として掲載される。

高校時代

福岡県立福岡中央高校入学。小学生の時から演奏していたものの、自ら「JAZZ」と意識したのは高校2年の時。JAZZ喫茶に一緒に通った同級生の緒方裕光さん(G.後にプロデビュー)、姉のドラム仲間だった木下恒治さん(Dr.後にプロデビュー)らとMCQ(Modern Crossover Quartetto 後にドラマー原田迅明さん加入)を結成。その後YAMAHAエルモーション(バンドコンテスト)ベストキーボード賞を2度にわたり受賞。

バークリー音楽院へ留学

演奏する事でギャラを稼いだのは高3の冬から。一番忙しい時は午後から楽器店でキーボードのインストラクターをし、終わってからPM7時~AM2:30まで中洲などで演奏する日々。同じ頃FM福岡でYAMAHA提供のラジオ番組に稲葉政裕さん(現在、小田和正他のサポートギタリスト)と2人でレギュラー出演。その後21歳の時に自力で貯めた資金で米ボストン・バ―クリー音楽院へ留学し、ピアノ、作曲、編曲、和声学等を学んだ。学内でセッションを頻繁に行い、かなりの人気を博す。ピアニスト小曽根真さんは同期で、現在も親交を持つ。

東京時代

バークリー時代のメンバーとデビューの話もあり帰国。内向的な性格の為、自分のPRを一切しなかった結果、東京生活の最初の半年間はバイトをしながら暮らしていた。その後、NEW COMBO先代オーナー故有田平八郎氏が来福中のジャズドラマー村上寛氏に彼の魅力を語ってくれた事もあり、東京でのライブにピアニストとして参加。その時共演したミュージシャンらも圧倒され、「バークリーから凄いピアニストが帰ってきた!」と一夜にして噂は広まり、東京中のミュージシャンがこぞってライブを聴きに来た。そうして東京を拠点にジャズを中心とした内外のトップミュージシャン (日野元彦、中本マリ、鈴木良雄、村上寛、大野えり、ITS、廣木光一他多数)との活動の傍ら、中南米音楽・シャンソン・カンツォーネなど多岐に渡るポピュラー音楽の演奏・編曲者としてもその才能を発揮していく。’85年にデビューアルバム「DAISUKE /岩崎大輔トリオ」 翌年「Jazz on Classic」「Dance Fun」をリリース。また‘88年福岡時代から面識があった勝木ゆかり、深浦昭彦両氏のユニット“S.E.N.S.”のデビュー時にNHK 『海のシルクロード』のピアニストとして参加。演奏だけではなく編曲なども手伝う。その後、’91年にTVドラマ 『もう誰も愛さない』(フジテレビ制作、吉田栄作・田中美奈子主演、観月ありさデビュー作)、ミュージカル 『Far East Story』の音楽を担当。初のミュージカルはかなり手こずったが、詞が用意されて曲を作る初めての経験で「詞が出来た時点で音楽は既に出来上がっている」と感じた瞬間だった。他にも三菱電機やホンダ等大手企業の広告音楽の制作等々多方面からオファーが殺到。しかし、その大活躍の最中、故郷福岡へ帰る決意を固める。多くの人に「上手くいっているのに、何故?」と問われながらも、大きな波に乗る気持ちは全く無く、自身を見つめ直したいとの思いで荷物をまとめた。

色んな意味で行き詰っていた。忙し過ぎる事や、独身である事とか。。。また当時は人間関係を気にする繊細な性格で、人付き合いにも正直疲れていた。周りの人間からも「疲れ切って諦めて故郷へ帰った」と映っていただろう。その為か東京時代の終わりは1人で演奏する事を好んだ。「(福岡へ戻って)やる気が出たら音楽を続けるけれど、そうでなければ自分の歩く道は(音楽では無く)違う道なのかもしれない。」大きな決断に自分を納得させながら、東京を後にした。

帰郷

‘92年福岡へ戻って落ちついた場所は、実家でも無く雷山キャンプ場(現・福岡県糸島市)の山の中。東京から持ち帰ったパソコンを操り、作曲活動にほとんどの時間を費やした。つまり、やる気はあったと言う事だ。そして孤独な山籠りの制作活動は1年半後の結婚を機に区切りをつけた。

あるジャズおやじとの出会い

山口県下関市のジャズ喫茶のオーナー故溝辺学(さとる)氏はジャズしか聴くことがなかった熱いジャズおやじだった。しかし、ある日クラシックや映画音楽などをジャズ風にアレンジする彼の演奏を耳にし、気持ちを入れ替え大ファンとなる。そんな縁がきっかけで、下関の和太鼓グループのオリジナル曲制作のオファーがあり、’93年 ピアノ曲「海峡の詩組曲」、和太鼓組曲「天翔ける人」を作曲。これらの曲は下関の歴史から源平の最期を、後者は明治維新の立役者の一人高杉晋作をイメージして制作された。

後編に続く

文:MARI OKUSU 2015.7.31掲載

CDリリース

  • ’85年 『 DAISUKE / 岩崎大輔トリオ 』(日本コロンビア)
  • ’86年 『 Jazz on Classic 』(日本コロンビア)
  • 『 Dance Fun 』(日本コロンビア)
  • ’97年 『 リフレインラブ~あなたに逢いたい~ 』(ポニーキャニオン) ※SONYプレイステーション用ゲームソフト、同タイトルCD
  • ’99年 『 DAISUKE 2ND STAGE / 岩崎大輔 』
  • 04年 『 アーバン・クロスロード 』 ※ピアノソロアルバム
  • ’10年 『 CORNER OF THE STREET 』 ※ニューヨーク録音のリーダーアルバム

主なマスコミ関係・音楽担当

  • ‘88年 NHK 『 海のシルクロード 』 (ピアノ、編曲) 日本テレビ 『 Weekend Jazz 』 (「岩崎大輔プレイズ ウォルトディズニー」と題して出演) ミュージカル 『 Far East Story 』
  • ’89年 TBSドラマ 『 奥様は腕まくり 』の音楽に参加。
  • ‘91年 フジテレビドラマ 『 もう誰も愛さない 』
  • ’93年 NHK 『 九州のうた 』 チューリップ 「 心の旅 」 で九響と共演。
  • ’95年 ユニバーシア-ド福岡大会マスコットNHK 『 カパプーの絵かき歌 』 作曲
  • ’97年 NHKドラマ新銀河 『 愛情旅行 』 SONYプレイステーション用ゲームソフト 『 リフレインラブ~あなたに逢いたい~ 』音楽制作 ※同タイトルCD発売
  • ’10年 FM福岡放送局制作の舞台劇 『 月のしらべと陽のひびき 』

主なCM音楽制作

  • ‘88年 三菱電機(株) 企業プロモーションビデオ
  • ‘92年 本田技研工業(株)セダン型小型乗用車 『 アスコットイノ―バ 』 プロモーションビデオ
  • ’94年 大分県観光PRのCM、焼酎・紅乙女のCM音楽製作
  • ’11年 ラーメンチェーンレストラン一風堂CM