中野茂樹さん Interview[ひとSTORY] | 福岡のライブ情報検索サイト 音ナビ隊♪

音ナビ隊トップ > ひとSTORY > 中野茂樹さん

第6回

ひとSTORY

中野茂樹さん

中野茂樹さん 中野茂樹さん

甲斐バンドのアルバムに数曲参加した事もあるブルースハープ奏者、中野茂樹さん。

山部善次郎さんは言った。「茂樹のブルースハープはスゴイよ!」
永隈晋一さんも言った。「茂樹のブルースハープは日本で指折りよ!」
ある音楽関係者も言った。「茂樹さんのブルースハープは良いよ!」

実際の演奏を聞く前にあちこちで耳に入る評判で期待値はMAX。そしてLIVE会場で聴いた演奏は、評判通り素晴らしく心に響くものだった。

幼い頃

福岡市中央区長浜で生まれ、姉と2人兄弟。幼稚園に入る頃、南区玉川町に引越。小学6年頃、防音をしていない隣の民家から聞こえてくる、大学生の従兄たちのバンド練習に興味深々だった。

中学時代

南区筑紫丘中学入学。洋楽との出会いは英のバンド、”ハ―マンズ・ハ―ミッツ”などをTV番組で。最初に触った楽器はギター。わからないままベースの教則本をガットギターでトライしたり、「禁じられた遊び」を弾いてみた。エレキブームやGS(グループサウンズ)ブームで馬糞紙(黄色いボール紙)でギターを作り、その気になって遊んだ思い出もある。GSの中ではザ・タイガースのファン。まだ人気が出る前の彼らを発見。傾倒している音楽にも共通点を感じると共に、「日本人がバンドをする」と言う形を目にし、自分がバンドをする事をイメージさせてもらった。ザ・タイガースに育てられた気さえする。機会があったら、再結成したザ・タイガースのメンバーとお酒を酌み交わしながらお礼を伝え、音楽について語り合いたいと夢に描く。

当時、情報が少ない中でラジオはかなり貢献してくれた。RKBラジオの「ペプシポップスタイム」の天神のサテライトスタジオに毎週入り浸り、リクエストしたり一番前でヒットチャートを聴いた。KBCの深夜ラジオで松井伸一さんの「ヤングポップス」やFEN(現在のAFNの前身のラジオ局で米軍基地関係者向けのもの。)も欠かさず聞いたものだった。「ビルボード」や「メロディメーカー」のヒットチャート上位の中から気に入ったシングル盤をお小遣いをもらうとすぐにレコードショップへ走って買いに行った。

高校~照和デビュー

福岡市立福岡商業高校(現・福翔高校)入学。自由な校風が気に入っていた。授業中、こっそり音楽雑誌『MUSIC LIFE』を読んだ事もある。高校に入ってからはLP盤のレコードを月に1枚吟味して購入。(予算の都合でかなり我慢。)お気に入りは米のバンド“CCR(クリ―デンス・クリアウォーター・リバイバル)”とカントリーバンド”NGDB(ニッティ・グリッティ・ダート・バンド)”特にCCRには影響を受けた。高2の時に入ったクラブは理科研究部。クラブとは名ばかりの実際は好きな事を楽しむ集まり。ギターは相変わらず我流で適当に弾いていたが、ある日部室で弾いていたら、OBの3年生が遊びに来た。音楽の話をしていたら好みが合い、3人で一緒にバンドをする事に。その1人が甲斐よしひろさんである。モータウンのプロデューサーの名前を拝借し“ノーマン・ホイットフィールド”と言うバンド名に。甲斐よしひろさんはVO.&G、茂樹さんもG.もう一人もG.。演奏技術は自分が一番下手だが、センスは一番と自負していた。ある日ラジオ番組「ショコラヤングナイト」(公開生演奏番組)に応募出演し、甲斐さんの提案で帰りに照和へ飛び入り参加。すぐに気に入られ、次の週からレギュラー決定。その時、控室に居合わせた武田鉄矢さんと話した思い出もある。当時は”TULIP(財津和夫さん他)”“ハ―ズメン(安部俊幸さん他)”“エイプリル(西松一博さん他)”らが出演していた。照和では曜日が違うとなかなか他の出演者に会う事はない。その中で一番初めに喋ったのは当時“マリモ“の永隈晋一さん(元SHOTGUN)。 その頃、照和繋がりで警固中の文化祭に出演。同じく出演していた山部善次郎さんと出会い、CCRなど音楽の趣味が共通し大変盛り上がって仲良くなる。それからしばらくして、”ザ・ランチャーズ“(加山雄三のバックをしていたバンド)のようなサウンドの”エイプリル”でベース(エレキベース、ウッドベース)を頼まれ手伝っていたが、甲斐さんはそれが面白くないようで、いわば解雇通告。自分自身もギタリストとしての可能性を感じられず、脱退。活動期間は約1年だった。

高校卒業~大学時代

高校卒業間近に同級生とカントリーロックのNGDBを真似て、バンジョー、マンドリン、フィドル、ハーモニカの編成で“野多目JUG BAND”結成。NGDB、NRPS、CCR、麻田ひろし等々カバー。すぐに照和出演。その後、福岡大学入学。「フォークソング愛好会」に入部している中で選りすぐりのバンドは、学祭の「フラワージャンボリー」に出演できると聞き、急遽入部し出演。並行して大学2年の時からブルースバンド“博多仲良会ブルースバンド”にもブルースハープで参加(その後20年程参加)。カントリーミュージックやブルースにのめりこみ始めた。途中、照和でチーフの補佐のバイトを始める。無名の長淵剛さんが照和デビューする時にも立ち会い、その後も家に泊まりに来たりと交流があり、茂樹さんから色々な音楽を聞かせてあげた事もあった。大学卒業と同時に“野多目JUG BAND”は解散。茂樹さんは家業の保険代行業を継ぐ事になる。

社会人になって~これから

家業を継ぎながら、色んなバンドにフューチャーされてブルースハープで活躍。バブル期には仕事をしながら、頻繁にLIVE出演する事もあった。現在は月に多くて3回のステージをこなす。思い出の中には映画監督の崔洋一さんがたまたま茂樹さんの演奏を聴き、絶賛してくれたり、以前、警固町にあった「JAKES」ではテリーママクミラン(ナッシュビルのスタジオミュージシャン)とセッションした思い出もある。※ ラリー・カールトンがBLUE NOTE福岡で演奏した際のサポートメンバー・ハーピスト。

「自分は黒子だから。」と茂樹さんは言う。「黒子として存在するけれど、メインの人を輝かせながら、出るとこは出る。」がモットー。そして「就職して、スパッと音楽を辞める人の気がしれない。自分は生涯やめない。」と茂樹さん。「それは才能や実力をお持ちだから、そう思われるのではないですか?」と尋ねてみた。「いや、それは練習でどうにかなる。練習は正直だからね。」と深い言葉が返ってきた。想像できない程の練習を重ねてきた事が、多くの人を感動させる演奏に繋がるのだと納得。これからの夢をお尋ねしたところ、「考えてみたら、それなりにやれてると満足していると思う。旅人として単身でカントリーミュージックの中心地ナッシュビル(アメリカのテネシー州)の小さなバーでセッションをした経験もある。上には上がいるけどね。」とあくまでも謙虚。「参考までに山善にぶっとんだ夢を尋ねたら俳優になってみたいと仰ってましたよ。」と伝えると、「あ~俳優になってみたかったね。演奏と演技は一緒ですよ。」その流れからの話、演奏されている茂樹さんは普段とは別人で、何かが憑依して存在していると言う事だった。

そして今年は自分の新しいバンド、~ジャズ、ブルース、カントリーを混ぜ合わせたような~を構想中で、将来はCDでも音源を残したいと思っている。しかし音源は残したいけれど、そっくりそのままLIVEで活かせるようなそんなバンドを作りたいと言う事だ。

終わりに

終始腰が低く、丁寧にお話をしてくださる茂樹さん。ついつい違う話(facebook談義など)で横道に逸れても嫌な顔もせず、付き合ってくださる。そして謙虚な中に、ある程度の自信も垣間見られた。しかしその謙虚さゆえに周りの高い評価と茂樹さんのご自身の評価にはまだまだかなりの開きがあった。それが茂樹さんの向上心に繋がっているのかもしれない。その向上心を見習わなくてはと思わせてもらった。

色んなジャンルに対応できる力をお持ちの茂樹さんに、「福岡の音楽シーンに色々な貢献をしていただきたい」と伝えるとご自身もお手伝いをする年周りになったとも思うと仰った。福岡にとって貴重な先輩ミュージシャンである。

文:MARI OKUSU 2013.3.15掲載