第56回
ひとSTORY
里地帰(“和胡”奏者)
東京生まれの東京育ち。縁あって拠点を福岡へ移し、夢の実現に向けて邁進中の“和胡”奏者:里地帰(さとちき)氏。彼の音楽の原点から中国楽器の“二胡”との出合い、そして自ら創作した楽器“和胡”と2027年米ニューヨークのカーネギーホールでのコンサート開催へ向けての熱い思いをじっくり語って頂いた。
音楽との出合い
小学校時代一番好きだったのは音楽の授業。当時高校生だった7歳年上の兄が学園祭でギターを弾く姿を見て、憧れたのがきっかけ。天邪鬼な性格もあり兄と同じエレキギターではなく、自分の意志でクラシックギターを習うようになった。父所有のクラシックギターを使い、ギターが次第に大好きになり「禁じられた遊び」「アルハンブラの想い出」などちょっと渋い曲を弾く小学生だった。クラシックのギタリストでは巨匠と言われるスペインの“アンドレス・セゴビア(1893-1987)”、日本人では福田進一氏、村治佳織氏が有名で、当時村治佳織氏のコンサートを聴きに行ったこともある。
音楽三昧
中学・高校で仲間が出来たことで、エレキギターに持ち替えてロックバンドで演奏をすることもあった。とにかく音楽が好きでクラシックギターも高校3年生まで続けながら、仲間や自分の好きな音楽を演奏し、その延長線上にアコースティックギターでの作曲も好きになった。高校では吹奏楽部に入部。金管楽器のチューバを吹いた。高校の文化祭では、ギターを弾きながら自作の曲を歌ったり、英の“ディープ・パープル”“レッド・ツェッペリン”などロックの王道から入り、もっと激しい物だったり、他にもクラシック、日本の曲など音楽であれば何でも幅広く色々なことにチャレンジし、音楽を楽しみながら学生生活を過ごした。
必然の出会いと気づき
進路を決めるときに、音楽の道も考えたが、両親の反対に加え、そこまでの覚悟がなかったこともあり断念。高校時代は文系コースだったが、頑張って勉強し、興味があった理系の大学に合格。入学当初は音楽は楽しむ程度にやっていたが、授業が本格化すると、その難しさについていけなくなった。大学2年の春から夏くらいまで学校に通えなくなり、することもなく家に軽く引きこもりながら音楽ばかりをする生活が続いた。例年夏には、京都に住む父方の祖母宅へ家族で帰省していた。おばあちゃんっ子だったこともあり、時には一人で新幹線に乗って会いに行っていた。その年も夏が来て、思い悩んだが、結局祖母をきっかけに家から出る決心をした。新幹線のチケットを購入するお金もなく、思案した末、高校時代に使っていた原付バイクで京都を目指してみることにした。昨日までひきこもっていた人間が、お財布も空同然で、祖母のためにギターだけを背負い、当時住んでいた東京から国道1号線をひたすら西に西にバイクを走らせた。静岡県の浜松まで来たところでガソリンもお金も尽きてしまった。浜松駅まで向かうと結構人は流れていた。以前、地元のお兄さんが飲み屋街で三味線を弾き、投げ銭をもらっていたのを思い出し、路上ライブをすることを思いついた。ギターを取り出したものの勇気が出ず、歌いだすことが出来なかった。結局その日は、駅で仮眠をし、始発に駅員さんに起こされ、昼間は近くの公園で過ごし、夜にまた駅前に行った。「今日こそは歌うぞ!」と意気込んでみるがやはり勇気がなくて声が出ない。そんな日が3日ほど続いた。家に帰りたいというネガティブな感情も出てきたが、このまま家に帰ると、また元の生活に戻るのではという危機感が芽生え、勇気を振り絞ると初めて声を出し歌えた。立ち止まって音楽をじっくり聴いてくれる人はいなかったが、諦めずにしばらくは歌い続けた。すると、自転車で通りかかったほろ酔い加減の男性が目の前に座り、曲をリクエストされた。黙って3曲くらい聴いた男性の仕草から投げ銭を頂けるのでは?と淡い期待を抱いた。しかし、その男性からは怒号が飛んだ。「おまえ!それは本気でやっているのか!どうやったら人に聴いてもらってお金を得ることが出来るのか、ちゃんと真剣に考えたのか!」事情を説明すると、その男性から「先ずは食べろ」と居酒屋に連れて行かれ、おにぎりとみそ汁をご馳走になった。怒られている気もするし、親切にされている気もする。空腹が満たされると色々な感情が混ざり、生まれて初めて食事して涙が出るという経験をした。そのあと、その方から色々なことを教えてもらい、帰りがけにノートを1冊買ってくれた。「このノートがいっぱいになるまでアイデアを書き続けて、それを実行していくだけで何か変わるんじゃない?」と言われた。朝まで頑張ってアイデアを書き、全部は埋まらなかったが、最初の1ページ目の1行目に書いたことを早速試してみた。後でわかったことだが、この男性はプロのミュージシャンだった。
ミュージシャンへの第一歩
「歩いている人と同じ目線になるよう立って歌おう!」路上ライブは、地面に座ってギターを弾きながら歌うものだろうと思い込んでいた。その後、通りがかりの人たちの情報が足元や靴しかないことに気づき、立って歌ってみると景色が変わった。自分がいる場所、通りがかる人など情報量が沢山入って来ることに改めて気づいた。自分から声をかけて立ち止まって貰え、初めて人がいる状態で歌い始めることも出来た。一人増え二人増え、やがてちょっとした人だかりの中で歌い終え、昨日の景色とは全く違う世界を体験した。とは言え、投げ銭までには至らず、夜も更け、人通りも少なくなっていく。昨日までの自分なら諦めて公園や駅に行っているコース。ノートを見返し、夜に人が居るところはどこかと探し、飲み屋街のお店に飛び込み、弾き語りしたが反応は芳しくなかった。最初に「歌いなよ!」と言ってくれたお客さんからお酒を一杯ご馳走してもらいながら「今ここにいる人たちがどんな曲を聞きたいのか考えて歌った?」と問われ、歌いたい曲を歌ったと答えた。「知らない曲だったからみんなすぐに興味をなくしたんだよ。どんな曲をみんなが聴きたいのかとか興味があるのか考えてごらん。」と言われた。せっかくのアドバイスも当時20歳の自分にはわからなかった。白い紙ナプキンに一曲だけギターコードを書いてくれたのが”欧陽菲菲”の「ラブ・イズ・オーバー」。その男性が他のお客さんに声かけしてくれて、自分は上手く歌えなかったけれど、お客さんが最後まで合唱してくれ、もの凄い盛り上がりとなった。注目される中、自分の状況を説明し、自作の曲を披露すると皆さん真剣に、ある方は涙を流しながら聴いてくれた。この1回の投げ銭は東京-京都間何往復分かのガソリン代に相当した。盛り上がりの中、いつの間にかお店のマスターが次のお店を紹介するシステムが出来、翌朝までに結局10軒以上のスナックやショットバーを回った。頂いたお金でガソリンを入れ京都へ向かった。東京を出発して10日程過ぎていた。旅の途中に今まで話したこともないような年代の方たちや旅をしている色々な方に出会い、会話を通して様々なことを教えてもらったこの経験は、リハビリにもなり前向きな気持ちにもさせてくれた。このことは今でも自分の糧となっているし、凄く大切なことを学んだ気がする。ひとつが路上ライブで視点を変えて、相手の立場になってみるという事。もうひとつは今いる人たちが何を求めているかをしっかり考えるという事。
京都から東京に戻り、若気の至り、前向きな勘違いで「自分はギター一本あれば、どこでもやっていけるんじゃないか」そんな気持ちになり、プロを目指すことにした。地元の駅前の路上ライブでスカウトされ、ギターを弾きながら自作の曲やカバー曲を歌うという活動がプロとしての最初のキャリアとなった。
二胡との出会い
20歳の時、親戚が中国と取引があり、話の流れでカバン持ちならと中国出張へ付いて行った。初めての海外は、神戸から北京までの船旅。滞在中に道端から素敵な音が聞こえてきた。初めは姿が見えず、女性が歌っているように聞こえたが、近寄ると女性ではなく、おじいさんが不思議な楽器を弾いていた。それが中国楽器の“二胡”。帰国して二胡を手に入れたのは良いけれど、我流で弾くと、“ギー”という音しか鳴らず、「これは無理!」と。たまに押し入れから出して弾いてみたり、レコーディングで自分の曲に一音二音入れたり、その程度の遊び感覚で弾いていた。30歳を過ぎ、ギターの弾き語りという活動について迷いがあった。自分と同じスタイルのライバルミュージシャンが沢山いる中で、10年後20年後、このままこのスタイルで音楽を続けていくことはできるだろうか。ふと二胡を弾いてみると、スーッと凄くきれいな音が鳴ったような瞬間があった。「この楽器をちゃんと一回やってみたい!」当時住んでいた東京で、二胡教室に一から通うところからスタートし、ステージではギターを置き、完全に二胡と歌だけで勝負するようにした。
東京から福岡へ
福岡へ通うようになったきっかけは九州大学のキャンパスが六本松にあった頃、学園祭の実行委員がたまたま路上ライブ(ギターだけの演奏の時)を聴き、何度も九大祭に呼んでくれた時。気が付くと東京より福岡でのライブコンサートが多くなった。元々ギターの時代から福岡は熱烈なファンが他の地域に比べると多かったこともあり、段々と福岡を好きになり12~13年前に福岡にも拠点を構えて最終的には移住することにした。温かい人が多いし、食べ物も美味しい、空港も近い。良いことだらけで迷わず移住を決めた。出身は東京だけれど、東京には今は実家がなく故郷がない状態。だから自分のアイデンティティーというか帰る場所はどこなんだろうと思った時に、自分の中には福岡。福岡が今の自分の、これから生涯を過ごす場所と決めているので「福岡から世界へ」というキーワードで渡って行きたいという気持ちが凄く強い。本当に良くしてもらい、受け入れてもらったというのが一番大きい。心細かった時に、よそ者にもかかわらず、凄く親身になって応援してもらった場所は、ここしかない。
二胡から和胡へ:楽器製作へのきっかけ
2015年1月に海外(台湾)で初めて二胡奏者として演奏する機会があった。日本語がわかる世代の台湾の方から、日本の童謡や唱歌、古き良き歌をリクエストしてもらい、「ふるさと」「荒城の月」などを二胡で演奏して喜んでもらった。その時に、初めてちょっとした違和感、自分の中で強く引っかかった部分があった。音色についてだ。二胡の音色が好きになって二胡奏者として活動していたけれど、台湾で中国の楽器で日本の曲を弾くという、今までになかったシチュエーションで演奏する初めての機会。「日本の曲を演奏する時は、温かみのある柔らかな音色で演奏したい」という強い思いが、自分の中に生まれた。二胡は、本当に素晴らしい楽器でとても力強く、特に華やかな音色が得意な楽器。和を表現する時に大切なことは、力強さももちろんあるが、間だったり、日本特有の湿度だったり、四季折々の移り変わるグラデーションだったり。そういう柔らかい、温かみのある、日本人が表現したい情緒みたいなものを音色に表すことが出来ないだろうかと強く思った。そこから自分の中の楽器作りがスタート。最初にホームセンターに行き、ありとあらゆる木を買い、自分で組み立て、楽器のような物を作ってみた。自分では専門的な部分がどうする事も出来なかったので、東京在住の素晴らしい楽器製作者西野和弘氏と製作できることになり、2015年に一本目の和胡は完成。一本目が出来てから、今年で11年目となるが、何本も何本も色々な木を試してみたり試作品を沢山作り、今でも楽器は進化し続けている。そして、今使っている木材はケヤキという日本固有種でとてもバランスのとれた音色。木材と出合うことが出来て、今は革の部分を和紙、木はケヤキで作ったmade in Japanの楽器を和胡という名称で、オリジナルの楽器として製作そして演奏することになった。
職人さんの存在というのがとても大きく、自分ひとりだったら絶対に完成していなかった。“西野さん”と二人三脚で、もうちょっと音色がこう言う風にならないかとか、もうちょっと演奏しやすい風にならないかとか我がままを言い続け、何回もやり取りを重ねながら素晴らしい楽器に仕上がっていった。和紙は今は職人のこだわりで四国の物だけを使っている。ケヤキも通常は他県の木を使っているが、昨年初めて世界に一本だけ福岡県産のケヤキを使った和胡が誕生した。雉琴神社(福岡県糸島市)に樹齢300年ほどの御神木のケヤキが立っていたが、2020年の台風被害で倒れてしまった。これをニュースで知って、倒れた木の行く末が心配になり、次の日に神社に駆けつけた。御神木が未来ずっと残るよう、楽器の材料として使わせてもらえないかと、宮司さんに和胡を見せながら話をしたところ、思いに共感してくださり、和胡何本分かの木を分けて頂いた。製材して5年間の乾燥の期間を経て、2024年秋に楽器製作者に板を確認してもらい、初めて糸島産の福岡県産のしかも御神木から生まれた和胡が一本だけ完成した。5年を経た2025年9月、雉琴神社の秋季大祭で和胡と演奏を奉納した。
継承:和胡を伝統楽器へ
職人から「この樹齢300年の木であれば、大切に使っていけば向こう300年朽ちることはない」という話を聞き、この楽器は、合計すると600年もの間、この地球上に存在することが出来る可能性があると思うと感動する。楽器は残るので、この楽器と共に音楽も残って行くのではないかと思う。今の一番の目標は、まだ今年11才の和胡が、例えば100年後200年後、地球上に沢山の方の心の中にとどまって、少しずつ文化になって行けたらと。そして、今、未来の伝統楽器になるという思いを持って、色々な方と邁進している。
和楽器を辞書で調べると、伝統的なという枕詞があるので、和胡は今、和楽器になることは出来ない。たぶん自分が生きている間はその夢は叶うことはないだろう。伝統的な楽器になるためには必ず次の世代、その次の世代に、このバトンを渡しながら少しずつ拡がって行かないといけない。では、自分がこの代で出来ることとはどんなことなんだろう。重たいバトンを次の代に軽くして渡すために出来ることとは、職人と一緒に、最初に作った張本人としてこの和胡を出来る限り多くの方に知ってもらい、好きになってもらうことが、これから生涯かけて生きる自分の使命と思っている。そこで、世界で一番有名であろうコンサートホール、アメリカ・ニューヨークの“カーネギーホール”で、この和胡の単独公演を行い、沢山の方に知ってもらうという目標を2023年に掲げた。ホールの下見もかねてその年に初めてニューヨークへ行き、演奏させてもらった時に、自分が思っていた以上に反響があった。和胡に興味を持ち、もっと知りたい、聞きたいと言う方が多かったのが、自信につながった。2027年にカーネギーホールで単独公演をやろうと言い始めて、それがついに来年に迫って来た。思いついた時点で一番大きなコンサートでも200名くらいが自分の中での最高値だった。2023年に4年後の目標から逆算をして行き、日本での大きな実績が必要になるんじゃないかと感じた。2024年には、大濠能楽堂での単独公演で500名。それから一年後には多くの方々の応援で福岡シンフォニーホール1800席完売の記録を作ることが出来た。カーネギーホールは、お金を払えば借りられるという会場ではなく、ホールの審査があり、出来る限りの実績を持ってエントリーしたい。2026年の4月から5月中旬までニューヨークに滞在中。ホールの審査を待ちながら滞在し、生活する中で出来た縁を大切にし、ニューヨークではどういうことが大切なんだろうか、肌感覚を味わったり身につけたいと考えている。
カーネギーホールでの単独公演が仮に成功したとしても、その先にある和胡を広めるという自分のやるべき使命はずっと続く。今年はオーストリア、ドイツ、フランスとヨーロッパツアーが決まっているが、和胡という楽器が日本だけではなく色々な場所で、先ずは知ってもらい、好きになってもらい、どうやって皆さんに伝えられるかというのは引き続き研究していきたいと思っている。
インタビュー後
2026年初頭、3か月間に渡り行われたオンライン音楽プラットフォーム「corom」主催の第10回コロムグランプリ投票。上位入賞者は10月20日に開催されるZepp DiverCity (TOKYO) でのリアルイベント出場権が約束されていた。結果は楽器奏者部門・ニューフェイス部門・アーティスト部門の3部門において1位通過。カーネギーホールのコンサートへまた一歩近づいた。
エピローグ
「奏でる音楽があなたにとって『ふる里の地のような帰れる居場所』の 1つでありたい。」名前の由来である。挫折の中で人に導かれ、中国楽器の二胡と出合い、リフレクションを繰り返しながら、やがてオリジナル創作楽器の和胡と共に自分の世界を拓き続ける里地帰氏。彼が奏でる和胡のぬくもりと優しさ、郷愁は、自身がこれまでに受け取って来た人々の想いを、幾重にも紡いでいるかのように心に響く。「和胡を世界に。伝統楽器に。」壮大な夢は既に計画となり多くの人々を巻き込みながら実現への道を進んでいる。決して諦めない揺らぎのない信念が人の心を動かし不可能を可能にする。計画は動き始めた。これからの里地帰氏からますます目が離せない。
文:YASUE UEDA (インタビュー:MARI OKUSU)




