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第54回

ひとSTORY

ハリケーン湯川

ハリケーン湯川 ハリケーン湯川

幼い頃、ギターと同時期に出合った剣道で身体と精神を鍛えた学生時代。目には見えない進化を日々さらに変化させながら、現在、福岡を拠点に全国のライブハウスで精力的に活動しているハリケーン湯川さん。ひとたびステージに立つ時、どのように変貌するのか、聴く者たちにどのような音楽の醍醐味を体験させようとしているのか、そのルーツを紐解いて頂いた。

小学生時代:音楽・ギターとの出会い

福岡県春日市生まれ。父親がクラシックギターやマンドリンなど楽器演奏を趣味に持つという家庭環境の中、弦楽器は身近な存在であった。小学校3年の時、父にクラシックギターで“禁じられた遊び”を習い始め、“ビートルズ”の“抱きしめたい”をクラスの出し物で友人と演奏。クラシック音楽、ラテン音楽、フラメンコは日常的に家に流れていた。歌謡曲、演歌(北島三郎)は、“ベストテン”などの歌番組でジャンルに関係なく楽しんだ。そんな中、TVで再放送された“キャロル”の解散ライブの映像は、他の音楽とは異質の、強い感動を覚えた。ドキドキしたり、興奮で寝られなかったり。身心が反応した音楽は“キャロル”が最初だった。この衝撃的な出会いと体験は、後に音楽活動に進む上での礎となる。それからは他にも“クールス”等、ロックンロールをよく聴くようになり、アメリカ映画の「グリース」は映画館で何度も何度も鑑賞し、楽しくて飽きることはなかった。

中学生時代:シナロケの楽曲との出会い

中学時代、世間ではプロモーションビデオがスタートした頃。ハードロックの“KISS”、マイケル・シェンカー、“ディープパープル”を繰り返し聴いた。小林克也の音楽番組や“MTV”の影響を受け、小学校からエレキギターを弾いていた友人に、“KISS”のエース・フレーリーや“RAINBOW”のリッチー・ブラックモアなどのギターヒーローを教えてもらう。また、西鉄春日原駅の近くにあったレコード店“ディスクジャック” で勧められた“シーナ&ロケット”(シナロケ)のアルバム“真空パック”、“ヴァン・へイレン”のレコードを購入。どちらも “You Really Got Me”(元は英ロックバンド“キンクス”の曲)がカバーされており、ハードロックやロックンロールと、同じ曲でも演奏する人によって全く違う仕上がりになっていることに気づく。漠然とではあるが、そんな鮎川誠(“シナロケ”Gt.)のギター演奏に憧れ、やがて自分の好きなギタースタイルの方向性へと繋がっていった。

高校生時代:音楽よりも剣士で

音楽と同じくらい情熱を傾けたのが剣道。小児喘息があり親から勧められて小学3年生から道場に通った。中学生の頃、道場で全国大会に出場。その後、県立春日高校入学。同級生には、現在、コンテンポラリージャズギタリストとして活躍している内山覚もいた。高校2年の時の団体戦で5人抜きをし、基本的な運動能力が長けていたわけではないけれど、試合時間も3分~5分と短く、能力差も気持ちでひっくり返ることを感じた。3年時で出場した個人戦では、県大会3位入賞。

大学生時代:ステージデビューとブルースとの出会い

西南学院大学入学後も剣道部に入部。高校時代、剣道と両立して家でもギターは弾き続け、ステージデビューは大学生になってから。当時アピロス(現ダイエー系列)で行われたパーティーの中の1コーナー。同店でアルバイトをしていた友人の誘いで、ギターを担当。職員とアルバイトによるバンドの編成だった。この頃流行していたロックと言えば大瀧詠一、佐野元春、“ローリング・ストーンズ”、“J・ガイルズ・バンド”など。またメンバーでもある友人からインディーズのミュージシャンを教えてもらい、大学の先輩の“THE KIDS”の存在を知る。一般には知られていないが、かっこいい曲ばかりだと感じた。それからも大学の友人を通して知ったパブロックやブルースを聴き漁った。バンドを始めるとライブハウスへ出演したくなり、アピロスの時のメンバーで徒楽夢(ドラム:福岡市中央区今泉にあったライブハウス)に応募し、出演できるようになったのが大学2年の時。徒楽夢で演奏するようになって、ブルース・ミュージシャンと周りから認識されるようになり、ジュークレコード(福岡市中央区天神にあったレコード店)の店長松本康氏に「ブルースが聴きたい。」と伝えた。勧め方が上手く、まず選んでもらったブルースのレコード3枚の中から好きなのがあったら次、そしてその次と勧めてもらった。このことは、やがてグラデーションのようにじわじわと、今のブルースやブルースロックの仕上がりに繋がっていった。

転機

大学を卒業したある日のこと、米ブルース・ミュージシャンのサニー・ボーイ・ウィリアムソンⅡのレコードを紹介されて聴いてみると、今までとは違う聴こえ方がした。ワーッと押し寄せる衝撃を受けた。ラテン、アフリカ、民謡でもルーツミュージックに嵌ると、不可能なものはないと思えるほど盲目的になった。味覚が変わるように、自分の感情も変わったと感じた。この出来事がきっかけとなり、もっと沢山演奏したいという気持ちが沸き上がり、ミュージシャンへの道を歩みだす契機となった。

「ブルースやるなら楽器演奏だけでなく歌わないと」と思い、自分が歌うブルースバンドの旗揚げをした。東京でのセッションにも参加するようになり、楽しくはあったが、どこか物足りなさを感じた。おそらく福岡のミュージシャンは、“のぼせもん”といわれるように熱量が高いこともあったからではないだろうか。

 

その後、アメリカのシカゴに短期滞在をする。渡米してすぐは、憧れていた50年代60年代の音楽が懐メロになっていることに落胆し、セッションをしても面白さを感じなかった。自分が求めるような音楽にはもう出会えないのかと諦めかけた時、友人に連れられコアなプレーヤーが出演するサウスサイドのチェッカーボードラウンジのジャムセッションに参加することができた。シカゴブルースの黄金期と言われる1950、60年代のサウンドを作ったミュージシャンの1人、デイブ・マイヤーズはジャムのホストとしてそこに居た。そこで聴いたデイブのギター、それは衝撃的。トーン、タイミング、えぐられるような感覚。息を飲むような、ため息が出るような、腰が砕けるような。それほどの感動があった。そしてその感覚は今でも残り続けている。この出会いが音楽の楽しさを思い出させてくれた。この時の体験は、セッションする楽しさだけではなく、これからの音楽演奏スタイルを作り上げる基礎にも繋がった。

音楽への造形を確立:帰国~現在

島国の日本に比べ、髪も肌の色も言語も文化も多様が当たり前の日常に4か月間身を置いたことで、音楽に関しても大きな心境の変化があった。ジャンル的に特別視していたブルースが、ロック、ポップス、ラテン、アフリカ等、他の多種の音楽と、ジャンル的には並列になったと感じた。そして、ルーツミュージックによくある、聖域的な感覚、伝統芸能としてそれを守るように表現する気持ちへの縛りは薄れていった。それらの持つスピリットを自分の中に取り込んで、自分の演奏として表現するにあたっては、聴く人に楽しんでもらおうと思うようになっていった。自分を殺して何かに似合うような出し方をするのは、自分自身が面白くない。やがて腫れ物に触るような気分が抜け、演奏も柔らかくなった。そんな時にブルースも演奏する、オリジナルバンドをやりたいと思いつき、帰国後Hurricane&Cool Dozenというバンドを結成。

自分の名前を売ってくれた曲のひとつが、米ブルース歌手のジュニア・パーカーの曲“I Feel So Good (I wanna Boogie)”。米ブルースギタリスト・歌手のマジック・サムのカバーを演奏すると好評だった。ギタースタイルとしては、自分が魅力を感じるギタリストが、みんな指弾きだったのでウィルコ・ジョンソンの真似で指弾きを始めた。使い物になるまでにかなり時間を要したが、ピックを使って音を出した時と違い、指で弾いた時に気持ちとピタッと合った。ロックを演奏する時もハードなピッキングで弾くようになり、個性的な演奏ができるようになった。その後も、ブルースを中心とした活動を行う過程で、たくさんの魅力的でエネルギー溢れるロックミュージシャンとの付き合いが拡がり、大いに刺激を受ける。友人が縁をつないでくれて梶浦雅裕 (ex. THE MODS)主宰のバンド“The Blues One Nights” で渡辺圭一(ex. HEATWAVE)・ナガサキスリムと共にレギュラーメンバーで活動することになり、ツアーやアルバムリリースにも至った。石橋凌、大江信也(ザ・ルースターズ)、延原達治(THE PRIVATES)、山部善次郎、他にも多くのミュージシャンと共演。古いブルースやその色の強いバンドについては、アレンジ面において近代ロックとはギターの役割も少し違う。ブルースはソロとか歌とかはっきりしていない。合いの手が入ったり歌っているバックでソロみたいに演奏したりとか賑やか。ロックとブルースを上手く融和させながら他にはないロックバンドの演奏を作り上げることで、面白がられるようになった。ロックとブルースでは攻め方、タッチ、リズムの切り方も変わるし、動き方も変わるので、ブルースに戻った時に一瞬で調子が戻らない時もある。オールディーズからブルースではなく、間にはニューヨーク・パンク、イギー・ポップ、ブリティッシュ(イギリス)だと“フェイセズ”など様々な音の風景など、ブルースばかり演奏する中で出てきた景色、感動した音の景色は残っているので、たとえブルース調でなくてもイメージして弾くことはできる。以前、一緒に演奏した時に、ワンナイツで知り合うロックミュージシャン、みなさん個性も強く、例えば大江慎也は大江慎也でしか味わえない興奮がある。そう感じさせることができるのは本当に凄いと思う。

真にあるもの

剣道(スポーツ)とステージングには近いものがある。大学時代の先生から「気合を入れるって言う言葉があるが、気合っていう物質は存在しない。邪気、邪心が払われ集中して、自然体にいる状態が気が合い、気が入っている状態」と教えられた。ステージで緊張するのは良いが、上がったり固まったりしてはいけないということ。ずっとステージに立っていられるのは、この教えがあるからで、今に通じる価値観になっている。

エピローグ

インタビューを通してハリケーン湯川の根底に、2本の柱がしっかり息づいている印象を受けた。1つめはもちろん音楽愛。ギター演奏を通して彼の音楽・彼自身を表現する。2つ目はギターとほぼ時を同じく習い始めた剣道から学んだ精神である。音楽にもスポーツにも共通する「平常心」「自然体」。ミュージシャンである前に、ひとりの人間としてありのままに在る。ありのままを表現するためには自然体であることが必要。今も受け継いでいる「価値観」と彼は表現してくれた。 落ち着いた物腰と柔らかな人あたりのハリケーン湯川の奏でるギターメロディーは、湯川自身とギターが一心同体化し、時に激しく時には静かに語り掛ける。奏者と観客がステージを挟んで対峙する時、ハリケーン湯川が目指す音楽の高みに誘われ、多くの人の心に強く印象付けられるのだと思った。

文:YASUE UEDA (インタビュー:MARI OKUSU) 2025.5.23掲載