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第50回

ひとSTORY

藤山(トウヤマ)英一郎さん[ドラマーアーティスト]

藤山(トウヤマ)英一郎さん[ドラマーアーティスト] 藤山(トウヤマ)英一郎さん[ドラマーアーティスト]

若い頃からジャズドラマーとして頭角を現し、現在はジャズだけにとどまらず、アフリカ音楽など様々なジャンルで各国のミュージシャンとセッションを繰り広げる唯一無二のドラマー。シンプルな考え方と見えない未来を楽しむことにいきついた、ETこと藤山E.T.英一郎さんへインタビュー。

生い立ち

1967年熊本県出まれ。小学生の頃から野球少年。ピッチャーで変化球を投げていたが、3年生で“野球肘”(成長期に変化球を投げすぎることによって生じる肘の障害)になり、電気治療だけでは治らず、中学の時に断念することになる。

中学時代

姉の影響で、以前からいろんな音楽を聴いていた。‘80年、ドラムを始める。最初は安いドラムセットを親から買ってもらい、欲しかったシンバルなどは新聞配達をして、少しずつ自力で買い揃えた。初めは叩き方がわからなかったが、耳で聴いた音を再現するように、遊びながら叩いていた。楽器店でレッスンを受けると、すぐに出来るようになり、同級生とバンドを結成。先輩や大学生に誘われ、ロック、ジャズ、フュージョン系等、様々なジャンルをこなした。この頃からプロになる夢を描くようになる。また、絵にも才能を開花させ、美術教室にも通っていた。

ジャズとの出会い

高校生になり、唯一ジャズはよくわからずにやっていた。ある日、日野元彦氏(ジャズドラマーで日野皓正氏の実弟)の存在をテレビで知る。熊本のライブで生演奏を体感すると、今まで見た他のドラマーとは違う何かを感じた。基本がちゃんとしていて、ナチュラルで、アコースティックな印象が残った。ジャズを「わからない」ゆえに「わかりたい」と思い、チャレンジを始める。高校では美大進学を勧められたり、他にも興味があったベースと、卒業後の進路の選択肢は複数あったが、「音楽でドラム」を最終的に選ぶ。両親は普通に大学を卒業し、会社員になることを望んでいたので、上京するにはそれなりの理由が必要だった。「自分は音楽で東京へ行く」と説得を重ね、決められた受験システムに疑問を持っていたのもあり、元彦氏が携わっていた専門学校への進学を決めた。

上京

‘86年に上京。学校では、学生たちを「YOU」と呼び、名前を呼ばない元彦氏から、「YOUだけ、名前を憶えておくよ。」と言われる。構内で元彦氏のローディ(ミュージシャンがコンサートツアーやライブを行う際に、使用する楽器や機材の手配、管理、運搬、メンテナンス、セッティングなどを行う仕事)募集を目にしたが、応募はしなかった。その後、既にローディは決まっていたが、元彦氏から声がかかり、一緒に手伝うことに。弟子となり、間近で演奏を見る機会も増え、色んなミュージシャンにも知られるようになる。1年半後には、先輩ミュージシャンから仕事話がくるようになり、『実戦でやっていけ!』と、ローディは卒業。

プロデビュー

正式なデビューライブとしては、老舗のジャズクラブ“ALFIE”(日野夫人がオーナー)で、パーカッション奏者の横山達治氏のグループにてのステージだった。客席には、師匠とその兄、日野皓正氏(トランペット)もいた。その時、師匠から演奏中にたまに注意されながらも、「その辺のプロより100倍良い(笑)」と言われた事は今でも記憶に残っている。プロになった直後は毎日が必死。先輩方はリハーサルもせずに本番に挑むので、感じたままに叩いていた。やりはじめの頃は胃が痛むことも少なくなかった。様々なミュージシャン達との共演の中で、やりながら覚えていった。「この曲は〇〇(ミュージシャン名)のようなドラムを叩いて」という人もいたが、そんなんで良いのかと疑問に思っていた。海外のプレーヤー(ミルト・ジャクソン、ビリー・ヒギンズ、シダー・ウォルトン、グラディ・テイト等々)が客席に顔を見せることもしばしば。レコードやCDで勉強したレジェンド本人を目の前に、100%出せない自分に自問自答する。それまでの活動は勉強にはなったが、先が見えた気もして、日本を出る決意をする。師匠からの反対も特別なく、一度準備の為に九州へ。 ‘93年ニューヨークへ飛び、演奏したり、生活をしたりの1年間を過ごし、再度ニューヨークへ帰る予定で日本に戻った。

アフリカ音楽

‘90年、東京でもがいていた頃、TVで見た西アフリカ・セネガルの人間国宝・打楽器奏者ドゥードゥー・ンジャイ・ローズの音楽に感銘を受け、アフリカ音楽に目覚めるきっかけとなる。渡米前の九州で、たまたま西アフリカ人と出会い、アフリカ音楽への熱もさらに増した。‘98年セネガルのミュージシャンと共に、自己のパーカッショングループ“BIGNOISE ONE”を結成。‘99年、師匠の日野元彦氏を始め、友人、弟子と、相次いで大事な人々の悲報に接する。病気の人を助けることなど、どうすることもできなかったことに落ち込む日々。「生きるとは何なんだろう?」つらくなり、日本を離れたい思いが募り、アフリカへと旅立つ。検問などでお金をとられたり、二日かけてやっとカザンマス(西アフリカのセネガル共和国南西部)にたどり着いた時は一文無し。現地で友達を作ったり、どうにか過ごした。アフリカの大地、そこで生活している人々、海の音、鳥のさえずり、とかげや虫や動物、全ての自然を感じ、地球上で生きている自然を見て、「動物達も自分も地球上のここで今生きている。全てはシンプル。そのまんま。生きてるとは生きてることなんだ!」と禅問答にも似た答えが湧いてきた。色んなジャンルのルーツであるアフリカを経験したことで、「自然(大地)とコミュニケーションしている空気感」も合わさり、帰国後、セネガルのミュージシャンを連れてツアーを回り、九州ではまだ盛んではなかったアフリカ音楽を広めた。

考えていること

以前から福岡以外にも拠点を作り、(名古屋5年、東京数年)日本全国を飛び回っている。同じところにずっといないタイプ。どこにいても同じ気がしている。住民票がどこにあるか位の違い。日本だけではなく、色んな人種とも繋がりはあり、またどこにいても 繋がっている。今は、福岡に落ち着いているが、これからどうなるか自分にもわからない。どうなるかわからないことに興味がある。わかってしまうとつまらない。また、アーティストは、何でもメッセージが大事だと思う。自分はそういう人が好き。昔と違い、今は特にジャンルにはこだわっていない。段々関係なくなってきた。ジャンルをわけるってことは大した問題じゃない。違いをつけるというだけだから。違いの中だけにいると、よくない。争いごとになってしまう。全てを受け入れて、全てが一つで、その中に違いがある。音楽はCD、レコード、ラジオ、、、それが全てじゃない。元々電波もないところの生活の中から生まれてきている。いまだにそういう人たちもいる。

主な音楽活動

‘01年~日野皓正(tp.)クインテットに参加。他にも国内の有名ミュージシャンとの共演はもとより、海外ではマル・ウォルドロン(pf.)ハンク・ジョーンズ(pf.)ローランド・ハナ(pf.)ギル・コギンズ(pf.)ロン・カーター(b.)ジョ−・ヘンダ−ソン(ts.)など。アメリカ、西アフリカ、フィリピン、エジプト、韓国、香港など海外での公演も精力的に行う。現在は自己のバンドを中心に、アフリカンセッション、ETセッション、FANAWANA(永見行崇(org.)とのユニット)、DRAGON KING(ギニアのパーカッション奏者マムドゥ ジャバテとのユニット)で活動中。主なリリースCDは、‘07 年オルガンユニット“FANAWANA”で、オリジナルを中心とした Album“NATURAL STONE”。‘18年9月に30周年の集大成として、CD “E.T.session Vol:1”発売。

これから

自分から発信し、創り出すことが一番大事。やらないと何も始まらない。以前も東京で開催した、自分で考えた大人数編成のオーケストラを再度やりたい。また、CD “E.T.session”を生きてる間にvol.10までリリースさせようと思っている。ひらめきを大事にしていて、自分が思ったことがやれれば最高!音楽に関しては、楽しく、今まで生きてきたすべてを音で作っていきたい。音楽は完全に生活の中にあるから。

インタビューを終えて

「生きているのは、今。一瞬の積み重ね。音楽も生きている瞬間。そこに全てがある。」ちょっと哲学的な会話の中に、自信と優しさ、楽しさと繊細さ、シンプルさと複雑さ。相反する二つの個性が見えてきた。ある方に「一言で言うと、藤山さんはどういう方ですか?」と問うと、「ONE and ONLY」と即答された。まさに唯一無二の時間だった。

文:MARI OKUSU 2020.3.10掲載