白浜久さん(前編) Interview[ひとSTORY] | 福岡のライブ情報検索サイト 音ナビ隊♪

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第5回

ひとSTORY

白浜久さん(前編)

白浜久さん 白浜久さん

福山雅治、奥田民生、寺岡呼人(元”JUN SKY WALKER(S)” 現”ゆず”のプロデューサー)がリスペクトしたバンド”ARB”。福山雅治にいたってはデビューアルバム「伝言」のプロデュースに元”ARB”のギタリスト白浜久さんを指名し、200万枚近くを売り上げた。今回は帰福中の白浜久さんにお話を伺った。

出会いの不思議さ

白浜さんの今までの人生は、ミラクルな出会い・出来事が多いのに驚かされる。しかもそれは生まれる前から既に始まっていた。白浜家の第三子として母の胎内にいる頃、ある2歳の少年は、斜め前の家のもうすぐ生まれる子を待ちかねていた。その少年はのちの元”ARB”リーダー田中一郎さん(現“甲斐バンド”)である。当然、幼馴染としていつも遊んでくれた優しい近所のお兄さんだった。

音楽の始まり

転勤族の父と共に北海道など国内を転々とする。再び福岡へ戻り、中学は福岡市南区三宅中へ入学。(先輩には甲斐よしひろさん~”甲斐バンド”、永隈晋一さん~元”SHOTGUN”、そして田中一郎さん~“甲斐バンド”らがいる。)中2の時に新潟県長岡市へ転校。住んでいたのはバスが1日5本しかない町。長岡では近くのレコード店へ行くも、洋楽のお目当てのレコードは皆無。その為お小遣いを貯め、半年に一度日帰りで特急に片道5時間乗り、東京までレコードを買いに行くのが年中行事になっていた。高校は長岡の進学校「新潟県立長岡高校」を受験。合格したらギターを買ってもらう約束を両親とし猛勉強。もちろん合格。早速もらった5万円を握りしめ近くの楽器店へ走るが、GRECOすら置いていない。なんとか見つけたYAMAHAの赤いセミアコを、大好きだったイギリスのブルースロックバンド”Ten Years After”のギタリスト、アルヴィン・リーを真似て購入。(実際にはギブソンだが、遠目では同じと言う事で。しかしすぐに別のギターに買い替える。)

三度(みたび)福岡へ。そして照和との出会い。

高2の時福岡へ。福岡へ戻ってまずのカルチャーショックは、楽器店でフェンダー、ギブソンが置いてあり、レコード店で苦労せずに好きな輸入盤が普通に買えた事。それでもレコードが幾らでも欲しくなる為、苦肉の策で母からもらったお昼代を食べずに全部レコード代に費した。17歳の時九産大生中心のバンド”Razamanaz(ラザマナス)”(のちの”SHEENA&THE ROKKETS”のドラム川嶋一秀さんも在籍)でギタリストとしていきなり照和デビュー。そこで”リンドン”でメジャーデビューする直前の田中一郎さんとも再会。(ちょうど”TULIP”や”甲斐バンド”も東京行く直前のタイミング)当時、照和はジャンルのルツボ。ハードロックしか知らなかったのを、照和で出会った先輩から色んなジャンルのレクチャーを受ける。永隈さんからはウエストコーストの見た事も聞いた事もないバンドのレコ-ドを、中野茂樹さん(元ノーマン・ホイットフィールド〜甲斐よしひろさんも在籍、元野多目ジャグバンド)からはラグタイムの古いレコードを教えてもらったりと、10代の内にアメリカのロック系図がかなりわかった。しかも「この曲のココがスゴイんだ!」と諸先輩方は音楽的英才教育まで行ってくれた。「10代の頃はずっと曲を聞く勉強をし、恐らく人の5倍は聞いたと思う。そして、この頃の照和は皆オリジナリティを競っていて、17~18歳の(今、思えば)とても早熟な素晴らしいミュージシャンがたくさんいた。本当に良い時期に自分も照和に関わったと思う。機会があれば、あの75年頃の照和の音源をCDにして残しておくべきだね。」

大学時代

西南大学文学部英語専攻入学。大学にはほとんど行かず、大学1年の時すでに留年決定。19歳の時には音楽仲間の溜まり場だった永隈さんの部屋に居候して、永隈さんが中洲のハコの仕事でいない時も”カヤック”他レアなバンドのレコードを山ほど聴かせてもらっていた。”THE MOZZ”(のちの”THE MODS”)でも活動するが2年で脱退。脱退前に書いた曲で”THE MOZZ”がPOPCONつま恋本選会に進み、作曲者として本選会に参加。その時、自身のバンド ”THE ZIGY”は惜しくも九州大会で涙を飲んだ。(”THE MODS”のデビューのきっかけになったデモテープは白浜さんがギターを弾いていて、おまけシングルとしてその曲が使われている。)そして大学6年目にバンド活動封印。「目指せ、高級官僚!」と一念発起し、残りの単位(144単位中残り80単位の為、最後の1年は月曜の1限目から土曜の2限まで授業を全部とった)をがむしゃらに取得し、国家公務員の試験も合格。

法務教官時代

大学を無事に卒業し、初の赴任地は神奈川県の小田原少年院。そこで犯罪少年(特に性犯罪や薬物依存)の矯正教育に携わる法務教官となる。今までの人生でこの時が一番勉強したと思うほど哲学や心理学などハマって勉強し、やりがいも感じていた。しかし2年経ったある日かつて受け持った少年が再び罪を犯し、被害者の人生を取り返しのつかないものにしてしまった。「もし自分が違う教育や指導をしていたら・・・。もし・・・。」そう思うと、もう辞めざるを得なかった。後にも先にも自分の人生の中で一番の挫折。これに比べたら、自分の音楽が売れないなんて何て事ないとさえ思うのだった。

デビュー

法務教官の2年間は勉強ばかりして遊ばなかった為、貯金はそこそこあった。しばらく仕事をせずに過ごしていたら、世の中が短絡的に暴力に走るのを感じる。当時、横浜の名門高生が頻繁に「おやじ狩り」をし、800人検挙された時期でもある。やる事もなかったので、その事をテーマに曲を書き溜めていった。そして浅田孟さん(当時“SHEENA&THE ROKKETS”ベース)が頻繁にアパートへ遊びに来ていて、デモテープを作った事があった。その時のデモテープが何故か業界に出回り、ビクター他数社からオファーがあり、いつの間にかソロデビュー決定。レコーディングにタッチはしていなく、「出しても良いけど。」程度でキャンペーンも殆どしなかった。その頃照和時代に面識のあった石橋凌さんがスタジオに遊びに来て、1曲セッションをする。その後飲みに行き、石橋さんから「もう一度昔のお前に戻ってくれ!」と言われ、ソロデビューしてすぐに“ARB”へ加入。驚いたのは大学生活の最後の1年間と就職してからの2年間の合計3年間は殆どギターは弾いていなく、福岡時代も含めて全くデビューする気がなかった(”THE ZIGY”でもデビューの話が何件かあったにも拘らず)と言う事実。その3年間は楽器は触らなかったが、曲は相変わらず聴いていて「演奏するよりも曲を聴く方が好きで、人前に出てやるのはあんまり得意じゃない。」と白浜さんの口から意外な本音が出た。(敬称略)
(後編に続く)

関連リンク

Hisashi.Shirahamaプロジェクト 動画 “They said”http://pandars.net/theysaid.html

白浜久オフィシャルサイト http://pandars.net/

文:MARI OKUSU 2013.2.20掲載