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第46回

ひとSTORY

川波幸恵さん[バンドネオン奏者・タンゴ演奏家]

川波幸恵さん[バンドネオン奏者・タンゴ演奏家] 川波幸恵さん[バンドネオン奏者・タンゴ演奏家]

バンドネオン世界大会の優勝者は、小さい頃から天性の技で楽しい出会いを紡ぎ続ける。音楽家、そして時々女優!? 福岡県を「バンドネオン認知度日本一」にするための活動も行う。今回は、バンドネオン奏者の川波幸恵さんへインタビュー。

※バンドネオン:1847年ドイツ生まれの蛇腹楽器の一種。アコーディオンと違い、鍵盤ではなく、71個のボタンを操って演奏。アルゼンチン・タンゴの伴奏楽器として知られるが、独奏楽器としても高い演奏能力をもつ。

音楽との関わり

宗像市生まれ。六歳年上の兄と二人兄妹。家のオルガンでたまに遊んでいた7歳の頃、ピアノを習い始めた幼なじみと、一緒に遊ぶ時間が少なくなってしまった。それが理由で、「私も!」とレッスンを始めたのがピアノとの出会い。しかし、すぐに友達は辞めてしまい、「(辞めるなら、先生には) 自分で言いなさい。」と母から言われ、これと言ったモチベーションもないまま継続。

中学時代

私立福岡女学院中学校入学。無類のラジオ好きだった。笑福亭鶴瓶にファンレターを出したのをきっかけに、直接やり取りも始まる。また同時にCHAGE&ASKAの熱狂的なファンになり、会場入りや出待ちをすることも。サポートのミュージシャンとも顔馴染みになるほど。「東京へ行ったら、会える確率が高くなるかな?!」後に東京進学を考える1つの理由でもあった。中学の先生に勧められるままに、同高校の音楽科へ。のんきに構えて進学すると、同級生の練習量は想像を遥かに超えていた。

バンドネオンとの出会い

強い意思もなく音楽大学を目指すことに。受験2週間前たまたまテレビで見た、デビュー直前の小松亮太のバンドネオン演奏に衝撃を受ける。「ピアノはもういい、これをやりたい!!」それから受験当日までピアノの前に座ることはなかった。「不合格になった後、どうしようか?どうやったら東京へ行けるか?」そればかりを計画。受験で滞在中に、池袋のレコード店でフリーペーパー「モーストリー・クラシック」(現在は雑誌)内の「今年注目のアーティスト」で小松亮太の記事を発見。すぐに編集部に電話し、バンドネオンへの熱い思いを手紙にしたためた。そして、予期せず合格した発表日、小松さんからの返事が届く。上京後、楽器を触りに行く機会をもらい、初対面を果たす。すぐにバンドネオンを購入。親からもらった成人式の写真費用はその一部に消え、振袖姿の代わりに小松さんとの2ショット写真を福岡の両親の元へ送った。

音大入学

東京音楽大学(器楽科ピアノ専攻)入学。鶴瓶師匠と直接会って合格の報告も果たした。小松さんのレッスンも同時にスタート。4年間は学校ではピアノ、外ではバンドネオン。弾き方がわからなくなったこともあった。バンドネオンの弟子の中でプロ志向第一号だったこともあり、「基礎からきっちり」と言うより、「がむしゃら」にやるのみ。長年音楽に携わってきたので、本能的に弾き方が違うのはわかったが、当時は弾き方を手取り足取り教える余裕は先駆者にもないようだった。学校の先生に学外でバンドネオンをやっている事を告げると、「学校をやめなさい!」と一蹴される。当時のクラシック専門の大学では、ご法度だったのか、学校にもいづらく、つらい思いは卒業まで3年間続いた。バンドネオンの方も自力で試行錯誤し、なかなか上達できず、気持ちが浮かない日々でもあった。しかし、ある同級生と一緒に各自の課題の猛特訓を続け、最後は二人とも成績優秀者として卒業。

大学卒業後

国内外で開催された小松亮太コンサート、アルゼンチンプロモーション等に多数参加。その後、西塔祐三率いる『オルケスタ・ティピカ・パンパ』(伝統的なアルゼンチンタンゴの保存、発展を目的とした、日本で随一のダリエンソ・スタイル「鋭いスタッカートが特徴的な力強い演奏スタイル」を継承する楽団)に入団。ここで、演奏の仕方をより深く学んだ。米フィラデルフィアにて開催された第45回Mario Lanza Ball(2006年)にアジアを代表するアーティストの一人として前夜祭で客演。後にHector del Curtoにも師事。

女優デビュー⁈

2001年頃アコーディオニストcoba主催の蛇腹イベント出演。その際、女優の渡辺えりから声をかけられ、舞台『りぼん』でバンドネオンを弾く修学旅行生役で出演オファーを受ける。他にも宇梶剛士主宰劇団の舞台音楽の創作・出演。また、ある人物のモデルとして小説『忘却の調べ〜オブリビオン』に登場したが、横溝正史ミステリー大賞受賞後テレビ東京でドラマ化され、本人役で出演した経験もある。女優業を通して学んだことは、役者さんが言われることが音楽と同じだったり、表現するというところでは感じることが多かった。(演技も演奏も)アプローチの仕方が色々あるし、色んな手法もあるので面白いと思う。演劇も一つの作品を作り上げる面白さが良い。照明や転換が身近で見られたり、役者さんの温度やキャッチボールになってる時など、全然人によって違うわけだから。役者さんの中でも特に若い子や研究生の成長が見えるのも素晴らしい。

休養

長い音楽生活の中では、こんな楽器に出会わなければ、辛い出来事は起きなかったのでは、、、と思った時期もあり、20代後半に二年ほど音楽から離れた時期も実はあった。2008年、友人で津軽三味線奏者-KIJI-からアルバム“回帰”(当時、西はじめ名義)レコーディングのオファーもあり、感謝と共に少しずつ音楽を復活させていった。また、2011年“回帰”で共演したギタリスト山口亮志とのファーストアルバム”Mas alla del Tango~タンゴの向こうに~” をリリース。アメリカ・ジャマイカツアーを行う。同年に大病を患ったが、無事手術も成功。今までメンタル的に大きく悩んだ時期を考えると、手術で解決できるなんてラッキーとさえ思えた。2012年頃、拠点を福岡へ移す。

“バンドネオン知っとう隊“発足

「バンドネオンの認知度ランキングがあるとしたら、福岡県民を第1位にしたい!」と思ったのをきっかけに“バンドネオン知っとう隊“発足。川波幸恵のコンサート情報やタンゴの音などを案内しながら、日々バンドネオンの魅力を伝える活動を行う。バンドネオンのキャラクター「ゆきたん」も誕生!

主な音楽活動

沢田研二主演音楽劇、渡辺えり主宰の劇団『宇宙堂』公演、大駱駝艦舞台作品(舞踏批評家協会賞新人受賞)に楽曲提供を行う他、西城秀樹のディナーショー、堀北真希主演映画サントラ、夏川りみの楽曲等参加。津軽三味線やセファルディー民謡とのコラボライブなど、様々なジャンルの音楽家とも共演。2013年リバレインホール(博多区中洲)にてタップの巨匠中野章三と共演。その他、クウォーター・グッド・オフィス第25回記念チャリティーコンサートでは、サントリーホールにてオーケストラと共演するなど、数少ない日本人女性バンドネオン奏者として精力的に活躍。また、2015年アメリカで開催された第一回チェ・バンドネオン世界大会優勝。「笑福亭鶴瓶落語会」では、お囃子さんと共に演奏した経験もある。テレビ朝日「題名のない音楽会」出演など。

演奏以外の活動

宗像青年会議所所属。イベントなどを通し、同世代の活動を知る機会となっている。海外演奏家を招聘しコンサートを企画、文化交流を積極的に行っているほか、KBC九州毎日放送で放映されたドキュメンタリー番組「新・窓をあけて九州」では特集を組まれる。

これから

山口亮志(ギター)、-KIJI-(津軽三味線)、鈴木崇朗(バンドネオン)、我妻恵美子(舞踏)らの心をオープンにして付き合える、心強い仲間たちと「和魂洋祭コンサート」を2019年9月開催予定。彼らが居なければ、バンドネオンをまた弾くこともなかったとさえ思う人達と自身が主体的にコンセプトを持つ初めてのバンド。個々では共演してきたが、全部集まるのは今回初めて。東京でもやっていない、面白い企画だと自負している。また、2019年10月、台湾の“VOUGUE ファッションウィーク”での演奏も決定。2020年ヨーロッパツアーも計画中。「福岡から世界へ」を意識し、実践中。東京や海外など、定期的に外へ行くことを常に意識している。

インタビューを終えて

初対面にもかかわらず、笑顔と共に無防備に心を開いてくださった川波幸恵さん。そんな雰囲気が多くの楽しい出会いを作ってきたのだろう。受け身に見えて、「これ!」と思うことには知恵と行動力を最大限に活かす能動的な一面があるのも興味深い。人生をドラマチックにしているのは、そこなのかもしれないと話ながら感じた。バンドネオンの認知度は全国的にまだ高くないかもしれない。しかし、だから面白い!ぜひ、これを読んだ方々も力を合わせて、「福岡県民をバンドネオン認知度日本第1位!!」に導いていきましょう。

文:MARI OKUSU 2019.9.14掲載