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第39回

ひとSTORY

ジャガー・イケミさん(博多ザ・ブリスコ、vo.&gt.)

ジャガー・イケミさん(博多ザ・ブリスコ、vo.&gt.) ジャガー・イケミさん(博多ザ・ブリスコ、vo.&gt.)

幼い頃から様々なジャンルの音楽を吸収し、数多くの引き出しからその場に合った表現を生み出すロックシンガー、ジャガー・イケミさんに今回はインタビュー。

音楽との出会い

1964年(辰年)山口県下関市彦島生まれ。本名はそこから「龍彦(たつひこ)」と名付けられる。父方の祖母は日系アメリカ人。父の仕事の関係で幼稚園時代は広島市宇品で過ごした。歌謡曲が好きで、曲が流れると歌ったり、踊ったり、盆踊りで太鼓を叩くと「上手!」と褒められた。兄が病弱だった為、他所に預けられることも多く、近所の子が通うオルガン教室へ一緒に通うことで、1人ぼっちを免れた。

福岡へ

小学校入学と同時に父の実家のある福岡県粕屋町へ。小5の時、歌合戦のクラス代表に立候補し、フィンガー5や山本リンダを歌って優勝。「こんなに音楽の才能があったんだ!」担任の先生は驚きながら、通信簿で音楽に「5」をくれた。それまでは「1」だったので、それから音楽が好きになっていく。同じ頃、従姉がカーペンターズや井上陽水をギターで奏で、見よう見真似でギターを触ると、何となく弾けた。従姉がいない時でもギターを借り、その後譲り受ける。他にも彼女が好きなクイーンやベイシティローラーズ、チューリップを教わりながら一緒に聴いたり、音楽の影響を与えてくれた最初の人物。ただ、「音楽は楽しい」と思いながらも、ドッジボールの方がさらに楽しかったスポーツ少年。剣道は小4から何となくやり始め、二段取得の高1まで続ける。

学生時代

中学に入ると、音楽室で時々先輩達が持ち寄ったレコードコンサートが開かれた。そこで、ある曲を聴き、全身に鳥肌が立つ。「これ誰ですか?」「吉田拓郎の”人生を語らず“よ。」歌詞やメロディが突き刺さり、「俺も歌いたい!」と、真剣にフォークギターで歌うようになる。それからは学校にギターを持参し、先生の許可をもらって、ホームルームでミニコンサートを開催。あれほど好きだった歌謡曲(沢田研二、和田アキ子)は子供っぽく感じ、一切聴かなくなる。中2の時は、友達と二人でYAMAHA主催のコンテスト「POPCON」へ応募するも、テープ審査で落選。その後、ベスト電器主催のオーディションでは特別賞受賞。同じ頃、友達の姉の影響でロックのエアロスミスやロッド・スチュアートのコンサートへも行った。高校へ入ってからはエレキギターに転向。その頃になると、気後れするぐらい、周りのレベルは高くなっていた。中学の同級生がドラムセットを購入し、バンド活動を始め、山口義人(KING BEE 、ex.The Godzilla)がギター担当。もう一人サイドギターを探している所に自分の名前が上がった。エレキギターは友達に借り、弾き方も習い、これが最初に入ったバンド。ここで「バンドとは・・」を学ぶ。義人の”燃えろいい女“の空ピックは一つ上いくテクニックに感じ、「スゴイ!!プロと同じ!」この時はサイドギターに徹し、世良公則&ツイストやビートルズをコピー。エレキギターを弾くのもやっとだったが、徐々に上達し、段々欲も出て来て、自分のバンドを組むことに。サイドギターの増永尚喜(exヒートウェイヴ)にギターを教える事もあった。演奏はオリジナルというより、カッコイイ曲が世の中にたくさんあったのでコピー曲を選ぶ。また、ストーンズフリークの友人は、録音したテープに細かい説明書きまで付けてくれた。「右から聴こえているギターはキース。」「この曲はオリジナルではなく、スリムハーポのカバー。」「これはチャックベリーのカバー。」等々。この時、ネットやYouTubeも無く、自分でレコードを揃えようにも高校生には高価な為、もらった情報はとても有難かった。他にも社長の息子がいて、ギター、ベース、ドラムセット、その上、洋楽のLPレコード1000枚近くも所有。ビデオデッキも部屋に完備。流行りの洋楽は何でも揃えていて、セックス・ピストルズを初めて聴いたのも彼の家。二人のお陰でジャンルの幅がかなり広がった。そろそろ卒業後の進路を考え始めた頃、父が経営する会社が倒産。家計を考え、公務員を目指そうとした矢先、祖父が大学の費用を出してくれる事になった。福岡大学入学。結果的に、学費の半分はバイトで自ら稼いだ。

就職~博多ザ・ブリスコ誕生!

大学卒業後、就職。音楽活動は止めてしまったが、会社の企業祭で、バンド出演したことはあった。ある日、起業計画中の上司から共同経営者の1人として誘われ、フィリピン人の箱バンドを入れたレストラン「Heart Beat」をオープン。(※2017年閉店)しかし、経営がきびしくなり、1年後に方針変更。バンド時代の人脈を駆使し、アマチュアバンドが出演するライブハウスとしてリニューアル。バンドブームも相まって経営は軌道に乗った。その間、たまにスケジュール調整で、弾き語りで出演したり、曲を作る事もあった。数年後転職し、アパレル業界へ。裏方から表舞台へ復帰しようとバンド活動を再開する事に決めた。Heart Beat時代に知り合った、バンド休止中のミュージシャンにバックを頼んだのが、「博多ザ・ブリスコ」のスタート。「やりたいバンドが他に見つかったら辞めれば良いやん。」というスタンスで集めていたら、噂が噂を呼んで、ギタリストだけでも7~8人。総勢20人の時も。1回のライブだけだったメンバーもいて、誰がいたのか不明。音楽関係者からも大絶賛を受け、マスコミ関係のイベントにも出演。ライブには会場からお客さんが溢れたり、人気バンドに成長していった。スタート時、ソウルショーのようなバンドにしようというコンセプトがあった。ブリスコ(BRHYSSCO)の名前は後からこじつけて、「ブルース(B)、リズム(RHY)、ソウル(S)、スピリッツ(S)、コミュニケーション(CO)の頭文字を取った」と言っているが、本当は「プロレスのショーのようなワクワクする事をライブでやろう」とプロレスラーのジャック・ブリスコの名前から由来している。人と違う事をやりたかったので、コスチュームはあえてダサい路線を狙い、原色のパンタロンをメンバーも着用。人気もどんどん出てきて、大手からプロへのオファーもあったが、家の事を考え、その道は選ばなかった。メンバーも一人辞め、二人辞め、2005年女性2人とのギター、ドラム、キーボードと言う、ベースレスの3ピースバンドに落ち着いた。結成時はソウルショー的なのを作ったが、二代目のドラマー矢野一成(長渕剛他のツアーメンバー、ex.THE MOONBEAM)加入時は8ビートのロックテイストの曲を多く書いた。ハードファンクが得意なメンバーの時の曲、フリージャズ的な曲、アフリカンファンク的な曲、ストレートなロックなど、その時その時のメンバーにインスパイアされ、演奏する曲はどんどん変わっていった。基本的に色んなジャンルが好きなので自由自在に対応は可能で、ジャンルへのこだわりはなかった。今は女性二人なので、ソウルだけどポップな路線。ベースはキーボードでやるので、その事を加味した曲を作成。もう一つ活動しているバンド、TheBlueSoulではベースありきの曲や博多ザ・ブリスコの初期の曲を演奏。他にもバンド「ヘルタースケルター」(Vo,Gt千葉博ex.THE HIGH、ex.THE KIDS)にも所属。またソロで弾き語りの演奏も行う。

影響

中学の時、色んなジャンルを聴いたが、吉田拓郎の”人生を語らず“にはロックを感じ、泉谷しげるの声にもフォークというよりロックを感じた。さだまさしは詞の世界が好きだった。当時はメッセージ性がある詞が好きで、洋楽や拓郎も聴くが、演奏するのはフォーク。高校生になると、普段は洋楽を聴き、邦楽ではRCサクセションやシーナ&ロケッツ、ルースターズをよく聴いた。ロケッツのレコード”真空パック“のB面は全部カバー曲だったので、そこからまた新しい曲を知る。シナロケ版の”You Really God Me“ や”I Feel Good“などをコピー。次に衝撃を受けたのはRCサクセション。たまたまテレビで”STEP“を聴いた。派手なビジュアルにも驚いたが、聴いた事のないサウンド。でも意外とメロディアスで詞も心に届いた。また別の番組でRCの「雨上がりの夜空に」を聴き、「カッコイイ!」とピンとくる。まだRCに人気がなかった頃。その後、ツアーで福岡に来るのを聞きつけ、大博多ホールへ向かった。かなり空席が目立つ会場。ギターのチャボが最初にステージに出て来て、「イェーイ!」と叫んだ。会場は座って静かなまま。しばらくチャボが発する「イェーイ!」のみ。そして、客席から、「イェーイ!」と徐々にコール&レスポンスとなり、興奮して立ち上がる人も出て来た。10分程続いたかもしれない。そして、ベースが鳴り始め、他のメンバー登場。「スゴイ!!!!!」ビックリするほど鳥肌が立ち、髪の毛が逆だった気さえした。「カッコイイ!!」二回目の鳥肌事件。アウェイとは言え無いものの、様子見の人が多い中、自分達の渦に巻き込んでいくステージ。この体験は、曲というより、音楽やバンドの精神の影響を受け、この時感じた「ああいうライブをやりたい!」という衝撃は何十年経った今でも忘れられない。それから他のRCの曲やオーティス・レディングなどのソウルやローリングストーンズを聴くようになる。洋楽の歌詞の対訳を見るとメッセージ性があるのに気づいた。自分の中ではそこが拓郎のフォークと繋がる。ジェイムス・ブラウンやボブ・マーリーも。それから、高校の時、初めてチャップリンの映画を見て、そこにもメッセージ性を感じた。それから、チャップリンの伝記を読んだり、友人のおススメの遠藤周作の小説にはまって全作品を読み、どちらからも影響を受ける。

特別なミュージシャン

大学時代、色んな先輩から影響を受ける。「俺って(生き方が)ブルースよね!」と、ブルースを歌いたくなり、ここからオリジナル曲をしばらく止めた。ブルースバンドを組んで、そこそこ活動していたが、「オリジナル曲をもっと作った方が良い」と助言をもらい、そこから色んな音楽を聴き始め、すごく影響を受けたのがレオン・ラッセル。たまたまフレディ・キングを聴き、そのバックのキーボードを担当していたのがレオン。ジョー・コッカーのバックもレオン。色んなのを聴いている内にキーワードとして、レオン・ラッセルが頻繁に出てきた。ふとカーペンターズのアルバムを聴くとレオンの曲が何曲も入っている。「スゴイ!!」と感動し、レオンの濁声と美しい旋律が何とも言えずミスマッチで自分の琴線に触れ、ブルースとソウルの融合がまた自分にマッチした。レオンを聴き始めて、自分の音楽が一皮剥けた気がする。それからオリジナル曲の作り方やロックンロールの曲のアプローチの仕方のヒントなど、レオンの“The Ballad Of Mad Dogs and Englishmen”などの壮大なゴスペル調の曲に影響され、バラードから激しい曲まで、新たに創作意欲がさらに湧いてきた。今の「博多ザ・ブリスコ」の曲は最後の盛り上がり方やコンサートの作り方などレオンの影響を強く受けている。また日本のバンドの「JAGATARA(じゃがたら)」(ファンク)を聴いてまた鳥肌がたち、歌詞もすごく刺さり、影響を受けた。そうしながら、段々と今の自分が形成されてきた。歌詞もメロディも影響を受けたのはスライ&ザ・ファミリーストーン。メロディで影響を受けたのは、レオン・ラッセル、スティービー・ワンダー。エルトン・ジョンやビリー・ジョエルにも影響を与えたレオン・ラッセルが来福した1980年代後半のブルーノートへは一週間通しで全てのライブに行った。運良く、サインももらい、話が出来たのは忘れられない一生の思い出。

曲つくりとCD

2018年4月通算11枚目 CD“erection of god”発売。そして、ジャガー・イケミ 初のアコースティックソロアルバム「アンソロジー」2018年11月14日全国発売予定。本物のゴッホやモネの絵を見て感じるように、CDと生演奏は違う。但し、CDは作品を形として残すには良い。そうじゃないと、自分達みたいにメジャーでもないバンドは語り継がれない。また長年CDを発表し続けているが、曲は「作ろう」と思って作る。自分が生み出そうという気力がある内は「曲作り」をやり続けられる。オリジナル曲をやっているバンドなので、「曲を作るというエネルギーはやろうというエネルギー」と繋がる。「生み出していく努力は怠りたくない。」音楽だけじゃなく、色んなアンテナを張り、例えば、本を読んだり、映画を見たり、著名な経営者のスピーチを聞いたり、刺激のある所を見つけようとする。あの大御所のストーンズだって新曲を生み出して、ツアーも続けている。お約束の曲に新曲2~3曲を織り交ぜながら。きっと、ミック・ジャガーも新しい事をしないと、イマジネーションがつぶれるとわかっているんじゃないだろうか。どこまで出来るかわからないが、その努力は続けたい。コンスタントに曲を作って、アルバムを出し、お客様に届けたい。それをしないと、何の為に、ここまでバンドを続けているか?楽しいだけだったら、ここまで頻繁にライブ活動をしなくても良いのかもしれない。日々新しい発見をして、それを曲にしたい。この年にならないと書けない歌もあると思う。自分で作った曲は愛の歌が多いが、実は男女間の恋愛のように見えて、「生き方にも通じる」ようなダブルミーニングで書いている。また、聴いている人が様々な捉え方が出来るように歌詞を書くようにしていて、「聴く時の精神状態で色んな風に聴ける」という感想もよく届く。拓郎やボブ・ディランを聴いた時に自分もそう感じた。自分の中ではもちろん曲は完成しているが、聴いた時に、その人の解釈で完成すると思うので、押しつけたくはない。レコーディングした曲だけでも約150曲。まだまだ世に出していない曲も山ほどある。形に残るとあとあと聴いてもらえる可能性もある。多くの人に作った曲を聴いてもらいたいし、褒めてもらいたい。気に入ってくれる人が多い方が嬉しい。その為にも音源にして残しておきたい。

今までとこれから

今までも海外や大きなステージでの経験を重ねてきた。韓国最大の国営ロックフェス釜山インターナショナルロックフェス。西日本最大のロックフェス「サンセットライブ2009」。タイのグラミーレコード主催世界最大の野外フェス「ビッグマウンテンミュージックフェスティバル」。また、2017年エッセー集「jaguar ikemi essays memory of “less is more”」を発売。元々沖縄のキーポンミュージックに依頼されたブログをべースに160ページにまとめた。今後の大きな夢は、ブリスコの映画を撮ってみたい。今後も曲を作って、ライブを皆に届けていきたいのは継続した目標。常に新鮮な気持ちを忘れないように。初心忘るべからず。自分が感動した音楽の事を忘れずに、また、自分がそうだったように、「ブリスコを聴いてこんな事が変わった」と言われるような曲を作っていきたい。

終わりに

「積極的なところと、人に譲るところと両方ある。」と自己分析の弁。大勢のミュージシャンからよく声がかかるのは、多くのジャンルを受け入れるのと同様に、人に対しての優しさと包容力も理由の一つではないだろうか。年間60本のライブは素より、ラジオ番組、USTREAM配信、アルバム制作、毎年恒例の関東、関西ツアー等々。継続した精力的な活動で、福岡の音楽は多くの力をもらっているのは確かだ。

文:MARI OKUSU 2018.9.25掲載