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第35回

ひとSTORY

大塚直之さん(シンガーソングライター)

大塚直之さん(シンガーソングライター) 大塚直之さん(シンガーソングライター)

福岡をルーツとする音楽に憧れ、気づいたらこの街へたどり着き、多くの荒波を乗り越えては、いつも前を向いて歩き続けている。人を楽しませ、人から愛されるシンガーソングライター、大塚直之さんのインタビュー

生い立ち

山口県下関市生まれ。1人っ子として育つ。漫画が好きで漫画家を目指したのは近所に住む二つ年上の従兄の影響。それが始まりで、兄のように慕う彼のやる事は全て真似た。小学校5年の時、中学の文化祭でイルカの「なごり雪」をギターを弾きながら歌う従兄を見た。「え?いつの間に?」しかも田舎だから、もの凄くカッコ良く見えた。家に帰ってすぐに母に向かって「ギター買って!」と頼み込む。ギターを持ったら不良。それは時代だけでなく、今もそう言われる保守的な田舎町。「エレキギターはダメ。フォークギターもダメ。クラシックやるならクラシックギターなら買っても良い。」とOKをもらい、1万円のクラシックギターと教則本を買ってもらう。最初の頃は本に従い、クラシックばかり練習。その後はフォークミュージックのイルカ、グレープ、さだまさしの曲に出会い、雑誌「新譜ジャーナル」の楽譜を見て練習。チューリップや甲斐バンドなども大好きでよく聞いていた。

中学時代

中学校へ入学。ビートルズが大好きで同級生と手分けしてカセットテープやレコードを買い集め、お互い貸し合い。小遣いではシングルしか買えず、母が機嫌が良い時を狙い、アルバムをおねだり。文化祭にバンド出演を決め、仲間にやりたい曲を尋ねると、アリスやベイシティローラーズ、ハードロックなど好きな音楽がバラバラ。結局一曲目はビートルズの“She Loves You”に決定。ハードロック好きなギター担当はギターの音をひずませるので、ビートルズなのにバックのギターだけハードロックに。しかも、ベースギターは誰も持っていなかったので、苦肉の策で普通のエレキギターの高音の二弦を外して、ベースの振りをして弾いた。演奏もデタラメ。それからハードロックも好きになり、ボーカルを別に入れ、速弾きのギターを弾く事もあった。地元の三大ギタリストの1人がジミーペイジ(レッドツェッペリンのギタリスト)のファンだと言うと、聴きもせずにジミーペイジが嫌いになり、「自分はリッチー・ブラックモア(ディープパープル)とジェフ・ベックが好き」と言った。この頃既に将来は音楽をやりたい気持ちがあり、ノートに「何年何月にシングルレコード」を発売。オリコンチャート何位まで上がる。何歳に解散。」と人生計画の未来予想図を書いていた。ジャケットの絵を書いたり、ちゃんと低迷の時期も作っていた。

高校、そして憧れの街・福岡へ

高校生に入ると、いわゆる「めんたいロック」に打たれた。小学校時代のチューリップや甲斐バンドから始まり、モッズ、ARB、ロッカーズ、ルースターズ、サンハウス、、、好きな音楽は全部福岡。「なんで隣の県なのに、福岡はそんなにすごいとこなんかな?」徐々に福岡への想いが強くなる。並行してパンクロックに惹かれ、ハードなパンクも聴くようになったが、その後ロックンロールでもメロディアスな曲を聴くようになる。バンドのメンバーが卒業後は福岡の大学を考えていたので、一緒に移住する計画を立てていたが、直前で彼が大分へ進路を変更をした為、結局1人で福岡へ向かう事に。高校時代から、福岡の音楽情報誌「ブルージャグ」を定期購読していて、福岡のライブハウス「多夢」のオーナーかんさんの「頑固な話」をそこで知る。「俺の気に入らないバンドは、客を呼ぼうが上手かろうが下手かろうが出さん!」それを見て、「ここに行くしかない!」と深呼吸をして店に入り、カウンターに座ってかんさんに話しかけた。「バンドしたいんですよね~」「すれば良いやん。」とそっけない返事。何回か通ううちに「何とかと言うバンドがボーカルを探しよったけん。行ってみらんや。」そうやって色々と広がってきた。バンドやるぞと1人で福岡へ出てきた田舎者でどうしていいかわからない。当時、バンド募集の張り紙をしたり、レコード屋で「音楽やる人知らないですか?」と金髪の人など、いかにもバンドマンらしき人を見つけては、手当たり次第に尋ねてみた。今、思えば、上手くいくはずがない。一週間誰とも言葉を交わさない事もあったが、それでもギターを持って1人でスタジオへ行き、練習したり曲を作ったりした。山口では映画館もなく、福岡へ出て来て、最初の二年間は毎週「てあとる西新」へ映画を見に行っていた。それが自分の専門学校みたいなもの。またレコード屋さんで薦められた、パンクに影響を与えたシンガーと言われるヴァン・モリソンのソロアルバム“ムーンダンス”を聴いてみると、「パンクのパの字も無い」と思ったものの、すごく胸を打たれた。またキンクスの曲“思い出のスクールデイズ”で高校時代を思い出して涙したり、ブルースのレコードをジャケ買いしたり、今まで聴いてなかった音楽が自分の中に急に入ってきた。バンドが組めなかった、孤独で苦しんでいた時代に聴いた音楽が、今の自分の音楽性のベースになっている。思い通りに進まなかった時間が糧になっていると思う。

メジャーデビュー?

知り合ったバンドから知り合ったバンドへと渡り歩く日々が続いた。そして‘86年「JUG & Boogie BOX(ジャグ&ブギーボックス)」結成。リハーサルが終わったらお酒を飲み、飲みながら演奏。それがカッコイイと思っていた。今、思えば酷い演奏。しかし、その時見た人に言わせれば、そんな雰囲気でやっているので独特なオーラがあり、お客さんは徐々に増えていった。‘90年キティレコード主催コンテスト(CSPC)に応募。全国大会へは九州代表二組の1つとしてエントリー。「自分達は箸にも棒にも掛からんやろうな。」審査発表で二位は九州代表のもう一組が決まり、「頑張ったね!」と声掛けした後、グランプリで発表されたのはなんと自分達のバンド名だった。その後は会社持ちで月二回の上京。大御所が利用する箱根のスタジオで二週間籠らせてもらったりと至れり尽くせりの対応。「キティレコードへ所属し、東芝EMIからレコードをリリースするメジャーデビュー」の道が見えていた。しかし、ドラマーが原因不明の病気を発病(現在は完治)したり、その間会社の人事が変わったり、諸々の理由と自分達の若気の至りも重なって、話は消える。

教えること

演奏活動以外の顔は、スタジオ経営(ソウルミーティング福岡市早良区)と音楽講師として10歳から83歳までの30組の生徒の発表会も定期的に行う。生徒達の一曲一曲にかけるエネルギーがすごくて自分の方がパワーをもらっている。これはライブの時も同じことが言えて、お客さんからパワーをもらい、スタジオでは出ないパワーがステージでは出ている。「SAME OLD UPSTAIRS」のア・カペラを見た83歳の生徒さんが「ア・カペラをやりたい!」と言い出し、73歳、67歳と一緒に「シルバーハーモニーズ」で「アメージンググレース」を歌う事もある。多少音は外れても、そこに向かっていくだけで刺激的だ。本人達の努力はもちろんだが、その人の夢や目標を効率良くクリアするのをサポートするのが自分の仕事。教えると言っても、お手伝いだと思っている。ジャンルは多岐に亘り、初めて演奏するものもある。ちゃんと弾けるように努力するのでお陰で得る物があり、そういうのが糧になる。生徒さんが情熱を込めて歌える曲を選んできていて、自分も答えないといけないので、同じ熱量がいる。お陰で幅が広くなった。

現在の演奏活動

’01年「SAME OLD UPSTAIRS」結成。古いゴスペルカルテットスタイル(4人の男性ボーカルのア・カペラや場合によってはバンドをつけている)が好き。基本的にはソウルボーカルをストレートに歌う人、シャウトする人、低音を歌う人がいるスタイル。中でも佐世保Jazzで見た「The Blind Boys Of Alabama」に感銘を受ける。シャウトを聴いて涙が出た経験は生まれて初めて。シャウトさせたら染維宏一。ソウルを歌わせたらJUSTINe小川。この二人が歌で掛け合ったらあんな風にカッコイイとひらめいた。自分は低音ならどこまででも出るから、屋台骨は支えて、二人が大暴れするグループを作ろう。他にもメンバーを探そうと選ばれたのが桐山栄治。最初はもう1人いたが、都合により脱退。4人それぞれがリードボーカルをとる四声でやる事で固まった。それぞれ自身のバンドでのフロントマンとしての活動と並行しながら、ライフワーク的な活動を続け、「60歳になった時、最高に良いパフォーマンス!」を目指そうと決めて始めた。40年代~60年代のDoo Wop,SOUL,R&B,Gospelがレパートリーの中心。2012年初のライブアルバム「Live at Lafitte's Blacksmith Shop」発売。そして、この他の並行した活動としては「OK‘s」。武内正陽(g.)と二人のユニットで広島から鹿児島まで毎回二週間程まわる。ツアー先で家や別荘に泊まらせてくれる応援者もいたり、その日しか会えない人達とお酒を酌み交わす日もある。南九州、宮崎の方は実際地元でライブを見て、また北海道、和歌山、横浜の方々はCDとYou tubeだけの情報で「本場博多で聴きたい!」と福岡までライブに足を運んでくれることもある。そして、「THE俺とあいつ」30年以上一緒に活動する中村雄二(ds.)とのベースレスユニット。野口よしひこ(b.)が入るとロックンロールトリオ「THE俺とあいつら」。そして武内正陽(g.) が加わると「THE俺とあいつらDX」 ソロでは、2014年「UFOが町へやって来た」2016年「バナナキングがいる町で」二枚のCDアルバム発売。今でも、ライブ本数は合計すると月平均10本程。

最近思うこと

2016年23針縫う開頭手術をした。誰にも気づかれなかったが、変則顔面麻痺でその前二年間苦しんだ。自然と治る場合もあると聞き、放っておいたら悪化してきたので手術をすることに。手術に至るまでは人と会話するにも歌うにも集中力を欠き、すごくハンディがあった。「でも考えたら、二年間そんな過酷な状態で過ごしていて手術で治ったら、スーパーマンみたいになるんじゃないかな?!今は試練だと思ってる。」と話すと、驚かれる事も多かった。クヨクヨしないのは母譲り。入院中曲をたくさん作り、同室の方をモチーフに作った「松井のじいさん」という曲はアルバムにも収録。また人間として大事なのは相手に敬意を持つという事。関わっているグループ、ユニットに対して敬意を持っている。教室の生徒さんに対しても。忙しい仕事をしてるのに、時間を作って歌を覚えるのはスゴイと思う。自分が同じ環境だったとしたら、それだけ出来るだろうかと思う。だから、人間の関係はリスペクトありきだと思っている。数年前、ボブ・ディランのライブへ行った時、見るからに、そして声も老人のディラン。老人が投げる直球の魅力。老いもそのまま伝わる。その潔さがカッコイイと思う。僕らも昔は若くあるべきだと思っていたが、この年でしか出せない事とか、歌えない歌とかある。経験も違うし。体力的には落ちてるかもしれないけれど、今でしかやれない事があると思う。なので人前で音楽をやる時は常に胸を張ってやりたい。そして単純に人気者になりたい。人気者の定義は「ライブやる!」と告知したら、「来てください」と言わなくとも100人集まる位。まずはより多くの人に聴いてもらいたい。ちゃんと地道にやるだけ。そして楽しませることかな?

終わりに

いつでも前向きに考える不死身のシンガーソングライター。色んなジャンルでそれぞれの魅力を伝える。あるミュージシャンに「大塚直之さんは一言で言うとどんな方ですか?」と尋ねてみた。「ジャンルは『大塚直之』」 の答え。真似が出来ないオリジナリティあるミュージシャンと言う事だろう。人として包容力があり、そして人から愛される、それぞれの大塚直之をライブ会場で楽しんでいただきたい。

文:MARI OKUSU 2018.3.26 掲載