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第34回

ひとSTORY

西田麻美さん(ジャズボーカル)

西田麻美さん(ジャズボーカル) 西田麻美さん(ジャズボーカル)

小さい頃からの夢を叶え、オペラ歌手として称賛を浴びた後にジャズと出会う。30歳で本場アメリカへ留学し、帰国後ジャズボーカルコンテストでグランプリ受賞。今回はジャズボーカリスト西田麻美さんへインタビュー。

生い立ち

久留米市生まれ。祖母の話によると、よちよち歩きの頃、温泉センターで必ずマイクを持ってステージでアワアワ歌い、物心ついた時から、歌手になる事を疑わなかった。母もクラシックギターを習い、独学でピアノを弾くなど音楽好き。3歳になり、ピアノの先生の下へ連れて行かれたが、レッスンは4歳からで十分と言われ、1年後にリズムの音楽教室とピアノのレッスンを始める。幼稚園時代、当時の歌謡曲をピアノを弾きながら歌うまでに。決められたことをやる練習を嫌がり、自分で良いように聞こえてくる音を弾くのがお気に入りだった。窮屈に枠に入れられるのを嫌がる性格は今も変わらない。定番の練習曲集のバイエルやツェルニーは一通りやったが、ベートーベンやモーツアルトなどをちゃんと弾き出したのは高校へ入ってから。

学生時代〜上京

小学校4年から、筑後地区児童吹奏楽団(現・久留米児童吹奏楽団)へ入団し、ホルンを担当。1年後、希望するトランペットに代わり、ファーストトランペットの座を掴んだ。活動は中学3年まで継続。反抗期に突入し、音楽から離れる期間もたまにあったが、同級生からは少し遅れて受験モードに。ピアノで県外の高校の音楽科を目指し、ひたすら頑張った結果合格。音楽科の先生から「声楽に進んだ方が良い」と勧められ、本格的に声楽の勉強を始め、昭和音楽大学音楽学部声楽学科入学。大学ではオペラを学ぶ。将来音楽だけでは食べていけない時の為に、教職を取り、教育実習で母校の久留米市立諏訪中学校へ。結局、採用試験を受けなかったのは、「やっぱり教育者ではなく、歌手として生きていきたい!」と強く思ったから。卒業時に大学より推薦を受け、読売新人演奏会に出演。(財)日本オペラ振興会オペラ歌手育成部(藤原歌劇団)の研究生として二年間本格的にオペラを学ぶ。修了時には、藤原歌劇団新人演奏会に選抜され出演。これをきっかけに、藤原歌劇団に推薦入団 (現在も準団員) 。オペラ歌手活動を1年半経験した後に、ジャズと出会った。

アメリカ留学

25歳の時、帰福。「ジャズに興味があるなら、ブルーノートへ行ってみたら?」母から勧められるままに見聞きしたものは衝撃的で、「ジャズの世界で生きていきたい!」と確信した。オペラとジャズの歌い方の違いに苦労はしなかったものの、勉強の仕方が全くわからなかった。譜面通りに歌うクラシックと違い、ジャズは楽譜もあるが、如何に自分らしくくずして歌うかが問われる。福岡で師事する人を見つけられずにいる間、自力で色んな音源を聴いて勉強し、今思えば「なんちゃってジャズ」の弾き語りの活動を行っていた。そうこうしているうちに「ジャズの本場アメリカでちゃんと学びたい!」という思いが募ってきた。学費の為のバイトをしていた29歳の時、米バークリー音楽大学の「アジアンスカラーシップツアー」(同大学がアジア地区で才能ある人を探すオーディション)を受験し、合格。翌年、30歳で渡米し、奨学生として入学。在学中よりゴスペルクワイヤー(聖歌隊)として、教会で歌ったりイベント等に参加。また、ボストンやその近郊で、イベント出演や、ジャズバーやクラブ等でセッションにも参加。卒業後もボストンやその近郊で演奏活動を続けた。‘01年7月ボストンで録音した1stアルバム「Expressions of Love」、‘02年5月ケンブリッジで録音した2ndアルバム「Soul Power」CDリリース。34歳で後ろ髪を引かれながら帰国。またすぐに東京へ出るつもりが、色んな事情が重なり、断念。‘05年8月、3rdアルバム「MY SOUL」リリース。そして、転機となる'06年5月に開催された第7回神戸ジャズボーカルクィーンコンテストのグランプリ受賞。同年9月、アメリカシアトルのジャズライブハウス「Jazz Alley」にてライブ開催。翌年、アメリカシアトルにて、イベント出演。これ以降の活動でミュージシャンやお客様等からの評価で自信にも繋がり、リピーターも増え、毎年全国ツアーへ出るようにもなり、国内外の素晴らしいミュージシャンとの共演を重ねている。力を発揮する場所を模索し続けていたが、これらの事で、やっと最近、「福岡から発信していく」と腹をくくった。東京は人口も多く、チャンスも多く、メディアとももっと近い。しかし、やり方によっては地方(福岡)からも良いパフォーマンスは発信していける。地元久留米にも、もっと生演奏を聴きに来て欲しい。特に自分はジャズの世界にいるので、ジャズのライブへ来て欲しい。もっともっとお客様の裾野を広げていきたい。

ボーカルレッスンについて

福岡へ戻った直後、ボーカル教室をスタート。わかっていないと人には教えられない。再確認をしながらレッスンをしていたら、教えることによって歌がすごく変わってきた。「この時間にこれだけの事を教えたい!」という情熱もあり、1時間のレッスンはあっという間。場合によっては、「今日は30分間私の話を聞いてください!」と一週間の日々あった事を話していく生徒さんもいる。まるでカウンセラーのようだ。内容は子育ての悩みやご両親の介護の話等々。信頼関係がかなり出来ている。長い生徒さんは16年。10年超える人も多く、カウンセリング率も高い。話を聞きながら、人生勉強にもなっている。また、師匠としてリスペクトはしてくれているが、体調を気にしてくれたり、生徒からどこか守られているような感じでもある。まるでファミリーのような関係なのかもしれない。

考えていること

英語の歌詞の意味をわからなくても感じて欲しい。音節を考えるとジャズは英語で歌いたい。日本語ではスイング、グルーヴが違うと思うから。そして、自称不器用で人見知り。思った事をはっきり言う時と言わない時と両極端。親しい人からは「歌に(性格が)そのまま出てる」と言われる。正直でわかりやすいらしい。もっと生き様をカッコよくしたい!一喜一憂しないで情熱を持った平常心の「いぶし銀」にもなりたい。その為に「もっと精神を落ち着けて、ブレないでたんたんと具体的な目標に向かっていく。」と言う理想を掲げている。しかし、ついつい破れかぶれでカッコ悪くなってしまう。それが自分かな?歌に関しては、レジェンドと言われる方々にインスパイアされながら、自分なりに一生懸命研究して歌って、自分を確立したい。一声歌っただけで「西田麻美だ!」とわかってもらえるように。誰と言うより自分との戦い。自分が目標。綺麗ごとではなく、本当にそう思う。自分をさらに磨いていって、受け入れる。また、表現したものは、評価されることによって、色んな確認が出来る。誰からでも良いと言われたいわけではなく、深い心で良いと感じてくれてると一番嬉しい。尊敬する母からは「あんたは不器用。もっと柔軟な心を持っていくと良い。」とのアドバイス。ご病気のお客様からは「感じるものがあって、生きる活力になった」とメールやお手紙をいただく事もある。歌っている意味があると思えるし、感謝したくなる。感動は大きく深く喜びたい。

終わりに

数年前、プロフィールも知らずに偶然聴いた歌声は既に「いぶし銀」そのものだった。そして、インタビュー時の彼女は少女のようにまっすぐで繊細。「守ってあげたい先生」と言われるのも頷けた。何度もライブに通うことで、ボーカリスト西田麻美の魅力の塊を余すところなく感じて欲しい。

文:MARI OKUSU 2018.3.10 掲載