音ナビ隊トップ > ひとSTORY > 内山覚さん(ジャズギタリスト)

第32回

ひとSTORY

内山覚さん(ジャズギタリスト)

内山覚さん(ジャズギタリスト) 内山覚さん(ジャズギタリスト)

音楽の英才教育から自主的に離れたものの、後に米国の名門大学で本格的に学び、現在、JAZZギタリストとして活躍中。今回はコンテンポラリージャズのギタリスト内山覚さんにインタビュー。

生い立ち

1966年福岡市生まれ。父は福岡教育大学教授で専門は音楽。ピアノの教え子は数え切れない。物心ついた頃には当然のようにピアノのレッスンに通う。しかし、その頃は動物好きだったのもあり、「ムツゴロウ王国」のスタッフになるのが夢だった。福岡市立筑紫丘中学校入学。ピアノよりも野球の方に魅力を感じたが、同級生とビートルズのコピーバンドを組む事になり、必然的にキーボードを担当。受験が終わった春に、メンバーには内緒でギターを購入。密かに上達しようと大手楽器店のレッスンに数ヶ月通ってみた。

ギタリスト誕生

福岡県立春日高校入学。アメリカンロックやその後ジャパンメタル(ラウドネス)を聴くようになり、年上の他校の生徒と組んだバンドでギターを担当。ヴァンヘイレンなどをコピー。月一で当時高砂にあったライブハウスのグリーンビレッジや福岡市民会館小ホールでのライブに出演。夜間部へ通う大学生と組んだ時は、放課後は毎日のように、楽器店で時間をつぶし、20時頃からスタジオで練習。学校には寝に行っていたような気がする。高2の時、東京には音楽の専門学校があり、エレキギターで学校へ行ける情報を知り、卒業後は東京の専門学校へ進むことを決める。まだ福岡には音楽の専門学校がなかった時代。本音を言うと、東京を選んだのは単純に1人暮らしをしたかったからかもしれない。行くにあたっては、理論やギター用の譜面読みなど基礎知識を習得しようとジャズギタリスト山中サトシ氏に師事。ジャズのいろは“枯葉”などを習った。

東京、そして米国へ

武蔵野音楽学院入学。ギター専攻はジャズフュージョン科とロックフュージョン科のどちらかを選べた。弟からは「ジャズは出来んやろ?」と言われたが、興味があってジャズを選ぶ。軽い気持ちで選んだジャズだったが、クラスメートは中学の頃からしっかりジャズを聴いていたり、有名なジャズギタリストの熱烈なファンだったり、せめてロック寄りでもカシオペアなどを聴いていた。慌ててそこから、勉強をし始めてジャズを聴きこんでいった。時が過ぎ、ミュージシャンの現実に遭遇。一度専門学校をドロップアウト。その後、米国バークリー音楽大学への進路の為、専門学校をきちんと卒業する事が最善と考え、再編入。バークレーインジャパン(バークレーの授業を日本で行う)で来日していたギター科のチェアマンに会いに行き、試験を受け、合格。しかし、その夏に母が他界し、留学を諦めることも考えるが、「親戚一同応援する」と母の遺言のようなものを聞き、翌年(’89)渡米。バークレーの同期にはジャズピアニスト大西順子さん、ドラマーの大坂昌彦さん、ピアノ作曲家の村井秀清さん(NHK「世界ふれあい街歩き」のテーマ曲作曲者)がいて、現地では大先輩のジャズピアニスト小曽根真さんとも交流があった。博物館“ボストンミュージアム”のX’masコンサートを3年間手がけ好評を博す。

偶然と偶然

’01年テレビから同時多発テロのニュースが流れていて、すぐにニューヨーク在住の友人に連絡を取った。ベーシスト中村健吾さん(小曽根真ビッグバンドNo Name Horses所属)の記事がジャズ専門誌で掲載されたのをちょうど見て、彼の安否も気になった。しかし、住所や電話番号も不明。3ヶ月後ニューヨーク行きの飛行機に乗り、ジョンFケネディ空港へ到着し、荷物を待っていると、隣にウッドベースを持っている男がいた。「ミュージシャンだ。」 顔を見ると、中村健吾さんだった。お互いに「え~!!!」ボストンの卒業式で別れて以来10年間音信不通の後の再会に「明日一緒に飯を食おうよ!」これをきっかけに15年間毎年末年始に会い、交流を続ける(後にCD『NEO』にも参加)本来の目的は久留米出身のボーカリストTSUKIKOさんら友人を訪ねることだったが、ギターを借り、TSUKIKO(vo.)さんと共演。しかも、ギターを借りた地元のミュージシャンの師匠は一番憧れているピーター・バーンスタイン(ジャズギタリスト)。当然、紹介してもらい、「ご褒美のような偶然の連続」に興奮する毎日を過ごした。

異国の地での気づき

’01年のニューヨークでのセッションで、あまりのレベルの差に愕然とした。「ミュージシャンを辞めよう」と思った程。大学を卒業し、福岡で専門学校の講師をしたり、演奏の仕事はしていたが、セッションから離れていた10年間で、感覚が取り戻せないでいた。「今後は講師一本が生きる道かな」そんな思いをしながら、ニューヨークで毎回セッションやライブを重ねるようになり、一念発起し、中洲のBar Jump House で毎週火曜日にソロギターを演奏し始め、今年で15年になる。ジャズにこだわっている気はない。ギターを上手くなりたいのが目的。毎年訪れるニューヨークでは副産物として「心と身体のリセット」も出来ていた。しかし、’14年父が認知症で介護が必要となり、年末年始の渡米は難しくなった。

自分にとって理想の形

今頃だが、「演奏するのが好き。ライブがしたい。」という思いが強くなり、ライブ本数は毎年更新し続けている。その為、ギター講師としての時間数は減らし、ライブの時間を確保するようにした。おととし土曜日のレッスンを止めてから、土曜日のライブも可能になる。九州内はもちろん、最近も茨城、山形、宮城で演奏し、さらにライブ演奏、特にツアーを増やしていきたいと思っている。ツアーメンバーと数日続けて演奏すると、日を追うごとに初日と違う演奏になる面白さがあり、それを楽しみに同じツアーの最初と最後に来られるお客様もいる。

教えること

ライブの為に教える時間は減らしているが、「教える」ことも得るものがある。考えれば、元々父が「教える人を教える」職業だった影響もあるだろう。レッスンで生徒に言ってる事を心の中で自分に問う事もあったり、年々教える事も変わってきている。 「俺ってギター弾きやね。」と思うようになったのはここ数年。それまではライブもやってたけど、教える都合でたまに仕事もするし、生徒のモチベーションにもなるのが目的だった所もあるかもしれない。同じギターを弾くのでも、教えるのと自分が主役の表現者と全く違う。だけど、どちらかに偏るのではなく、バランスを取っていきたいと思う。

今後の夢

昨年10回目を迎えた東京の「JAZZ ART SENGAWA」(音楽とアートパフォーマンスにスポット当てたイベント) のようなイベントを福岡で開催したい。舞踏や書道、色んな芸術とコラボさせる事で多くの人に音楽を聴いてもらえる機会に出来たらと思う。

主な演奏活動

2009年 「ビルボードライブ福岡」にて、『内山覚カルテット feat野瀬栄進 from NY 』を企画
2010-11年 『内山覚カルテット feat野瀬栄進 from NY』や野瀬栄進(p.)で年2回、九州各地でライブ実施
2013年自己のトリオ『Almost Blue』で韓国でのジャズフェスティバル「Jazz Wave」にて公演
2013-17年中洲JAZZ出演
2014年 『秀清・覚 ぶらり二人旅 』村井秀清(p.)とDUOでのライブツアー実施
2014-17年『バングラディシュの無医村へ病院建設支援チャリティーディナー&コンサート』に「内山覚フレンズ」で参加
2014-17年「SAGAN MUSIC FESTIVAL」出演
2016-17年 藤原清登(b.)とのDuo『王子のギター・帝王のベース参加

CDについて

2006年 NYにて、野瀬栄進(p)・Dave Ambrosio(b)・タケ鳥山(d)を迎えCD『SOUL・EYES』を録音。 2008年 初のフルアルバム『on the morningside』をNYにてレコーディング、Almost Blue Recordsより発表。

2012年 セカンドアルバム『NEO』melodies in the key of Creation をNYにてレコーディング! プロデューサー&ピアノに野瀬栄進(p)を迎え、メンバーは武石 聡(ds)、中村 健吾(b)、元ビル・エバンス(p)トリオの巨匠、Eliot Zigmund(ds)Ahmad Jamal(p)のベーシストJames Cammack(b)も参加。 今後もオリジナル曲を入れたCDを制作したい。現在、Newアルバム企画中。

主な共演ミュージシャン

中村健吾(b.)Dave Ambrosio(b.)タケ鳥山(ds.)Eliot Zigmund(ds.)山村隆一(b.)夏目成二(ds.)Ahmad Jamal(p.)James Cammack(b.)村井秀清(p.)野瀬栄進(p.)武石聡(per.) 藤原清登(b.)、高樹レイ(vo.)他

終わりに

インタビュー中、終始笑顔で正直に話してくださった印象の内山覚さん。家族や周りの人を大事に思う優しい人柄が、演奏から感じられる癒しにも繋がるのかもしれない。演奏活動はもちろん、夢を叶えて、福岡の音楽シーンに新たな波をもたらしていただきたい。

文:MARI OKUSU 2018.2.3 掲載