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第27回

ひとSTORY

GUNkondoさん(ボーカリスト)

GUNkondoさん(ボーカリスト) GUNkondoさん(ボーカリスト)

ソウルを中心に様々なジャンルを歌いこなすGUNkondoさん。会う前の印象は自信に満ちあふれたエネルギッシュな男前の女性ボーカリスト。 小麦色に焼けた肌の理由。生き方。想像通りだったり、意外だったり。印象的な目力で語られたGUNさんのほんの一部のストーリーをお裾分け。

生い立ち

1969年生まれ。転勤で父は静岡へ。母は長崎で出産。3歳まで静岡で過ごす。福岡市立原西小学校入学。母親に叱られる程、人と喋れない引っ込み思案。ところが二年生になった途端、近所の男子と野山で探検する、今に繋がるアクティブな面が作り上げられたようだ。

魂の音楽との出会い

中村学園女子高等学校入学。文化祭を目指してバンド活動開始。YAMAHA主催ポピュラーミュージックコンテストのボーカル部門優勝。18歳の頃、クラブでシェリル・リンやパティ・ラベルなどのゴスペル上がりのシンガーのディスコソングと出会い、衝撃を受ける。他にもソウル・ジャズ・リズム&ブルースの古い物、どんどんのめり込みだして、それ以来ブラックミュージックの虜に。

名前の由来

「GUN(ガン)」と言う名前の由来。それは、旧姓の一部の「岩」からとったニックネーム。そのまま演奏活動の時に使いだしたのは18歳頃から。スペルは「GAN」ではなく、「GUN」。辞書を引くと「勢い良く飛び出す」の意味で、自分にピッタリだと思い、決定。しかし、後にアメリカに資料を送る際、「GUN」だけでは支障があるだろうと忠告を受け、「GUNkondo」へ変更し、現在に至る。

高校卒業後

高校卒業後、アルバイト先の同僚が、当時としては画期的な「いわゆる打ち込み(コンピューターなどにシンセサイザーなどを自動演奏させる演奏データを入力すること)のデモテープ作成」をしている男性だった。ある日歌入れを頼まれ、新しい音楽に出会う機会となる。90年代初め、クラブのパーティで「DJパフォーマンス+ボーカル」でのステージが増えていく。同じ頃アシッドジャズ(英のクラブシーンから派生したジャズ文化。ジャズ・ファンクやソウル・ジャズ等の影響を受けたミックスされた音楽のジャンル)の踊れて、ソウルフルで、ファンクで・・・がすごく好きになりよく歌った。20代半ばに差し掛かった頃、ブルーノートに勤める事になり、毎日超一流の演奏を間近で見聞きし、日に日に耳が肥えて来ると同時に自分との差を見せつけられた。アメリカに渡ろうと決めたのは、「行かないとわからないことがあるはず。そこでこの音楽が生まれたのには理由がある。それをどうしても知りたい。」と思ったから。アメリカへ行く直前には220名が集まるライブを開催。

渡米

26歳でニューヨークへ。福岡のブルーノートで出会った、あるミュージシャンだけが唯一の知り合い。ボイストレーニング等を受け、ステージングも学ぶが、土曜の夜はクラブに行き、日曜はそのままハーレムの教会に通い、ゴスペル聴いたり、アポロシアターやジャズクラブに通う日々を過ごす。Halsey Gospel Groupにクワイアで参加し、ハーレムの教会や、ダウンタウンのクラブでパフォーマンスも経験。しかし、自分が求めていた60~70年代の黒人の「血沸き肉躍る熱」とは出会わず、不完全燃焼を通り越すほど。当初は「NYの後はシカゴからミシシッピを下ろう。そしてその後アフリカへ!」と思っていたが、年取っても行けるところは後回しにして、先にアフリカへ行く決断をする。渡米して7ヶ月後、そそくさと帰国。

そしてアフリカへ

一時帰国して5ヶ月後、 1年間の放浪の旅へ。南アフリカ・ケープタウンの空港に着いた途端、まずは宿探し。「右に行こうか、左が良いか?町はどっちだ?」 NYの時と違い、知り合いなんて1人もいない過酷な状況。ここでは、色恋沙汰以外の、ありとあらゆる出来事が起こった。この旅の経験は何事にも動じない精神力を付けさせてくれた。

「黒人から湧き出て来るあの感じは何なのか?音楽が生活にどう組み込まれているのか?」」この答えを求め、町を拠点にしながら幾つも田舎の村を渡り歩き、普通の観光客とは違う風景を見て過ごした。そして、「答えは全て」だった。喋ることがラップだったり、ある村の主婦が杵と臼で穀物を脱穀しているのに偶然出くわす。3人は最初は普通に喋りながら、トントンと作業をしていたが、途中でトントンがリズムを奏でだし、その内に乗ってきて手拍子が入り、段々とグルーブしだし、1人が口づさみだした。「すごい!カッコイイ!」楽しそうだし、グルーブは半端なかった。その光景を3時間飽きずに見続けてしまった。またある夜、遠くの方から聴こえる太鼓の音につられて行きついた広場では、人が輪になり、太鼓以外にもバラフォン(下にひょうたんがついた西アフリカの木琴)を演奏する人々が大勢いた。真ん中にたき火があり、踊っている人もいて、そう美味しくない地ビールがエンドレスに回ってきた。足を踏み入れた途端、「おまえも踊れ!」見よう見まねで踊っていると、「何故踊れるんだ?」高校時代伊達にクラブで踊っていたワケじゃない。アフリカでも認められ、「あんたはアフリカの血だね!」とも言われた。

アフリカでの心残り

地元楽団のウエディングパレードやマサイ族の「雨乞いの祭り」に参加など、多くの地域で多くの民族とストリートでセッションを重ねた。ある日、歌ってくれたお返しにこちらも歌を披露する機会があった。ブラックミュージックが好きでアメリカへ行った感覚のままだった自分は、アフリカで歌える曲が無いのに愕然とする。今まで歌っていたアメリカのソウルやディスコナンバーやリズム&ブルースやアシッドジャズをアフリカの現地の人の前で歌ってもしょうがない。当時はオリジナル曲もなく、「これが日本語の曲」と言える物も持たずにいたので、「自分のやれない感」を突き付けられた気がした。「日本人は自分の意見」を言わないとよく評されるが、割合自分は持っている方だと思っていた。足りてない部分もあったものの、なんとかコミュニケーションはとれていた。そんな中、一番得意で武器でもある「歌」でそれが出来ていないという事に大失望。帰国してからも「ゴスペルやソウルは好きだけど、黒人でもない、クリスチャンでもない、私は日本人。じゃあ民謡を歌えば良いと?」自分が日本人として何を歌って良いかわからず真っ白になってしまい、1年程迷走を続けた。

自分にとっての歌

ある日、後に結婚したご主人から「なんでソウルじゃいかんと?」と問われ、ハッとした。「そうだ。私のソウルを歌えば良いんだ!」それからはどんな曲であっても、自分の魂から滲み出る物しかやらないと固執した。曲は何でも良い。日本語の歌だったり、何でも歌うようになった。いきついたのは、「アメリカのソウルやスタンダードジャズや何の曲であっても、『これってGunちゃんじゃない?』という自分自身が出てくるような歌を歌えないといけない!」20年たった今でも心の中で思い続けている事。まだまだそれは達成はできていないけど、死ぬまで出来ないんだろうなと自己評価。その後、バンドを新たに作ったり、2000年にはINSIDE名義でCD「Journey to INSIDE」リリース。

周りからの後押しと広がる活動

応援してくれる人達の後押しは幾つも続く。2013年中洲ジャズ出演。同じく翌年はKeith Middleton(米NYオフブロードウェイのミュージカルStomp(ストンプ)主演)とコラボのオファー。大きいステージのトリを地元ミュージシャンとして初めて務めた。また、「バンバンバザールが拠点を福岡に移した記念の第一弾、福岡のミュージシャンのアルバムはGUNkondoで行こう!」となり、2016年初ソロアルバム「Point to the Line」をHOME WORK RECORDよりリリース。今回のCDは知らない人に知ってもらう意味で間口を広げられるように、また黒人音楽を聴いた事のない人にも聴きやすい物を制作。レコ発ライブにはギタリストPepe伊藤氏の紹介で、ドラマー村上ポンタ秀一氏も参加。その後、ポンタ氏が非常に気に入り、バンド6人編成での中洲ジャズ出演を経て、3ピースのツアー展開開始。現在年に数回ツアーが組まれている。

農作業について

今の自分を語るのに外せないのは「アフリカの旅」と「農作業」。ゆるがない土の中には想像を絶する数の微生物が存在して、何が起ころうと揺るがない。そこに根をはる植物はただそこに身を任せ命を巡らせている。循環している。

文化・音楽も揺るがない物、進化し巡っていく物。その他共通項がたくさん見出され、歌の肥やしになっている。初めてお米を作ったのは14年前。基本は雑草が勝手に育つような自然の巡りに近い状態で作る自然農法で。様々な環境により、色んな事が変わってくるので、じっと耐える時は耐えて、我慢して何も手をつけない。でもここは手を入れる等試行錯誤の繰り返し。

本で調べる・ネットで調べる、だけどやはり毎年の実体験が身を結び、経験値と知恵を生み音楽にも活かされる。とても大変ではあるが、それがあるのでやめられない。子育ても同じく。(上から中二・小六・小三の三姉妹の母でもある)自分を第一に考えられない状況の中での音楽活動を通して、精神的にも物理的にも器が大きくなったのを感じる。お客さんや協力者、応援してくださる方々が、どれだけの犠牲をはらってエネルギーを注いでくれているかが、自分の経験を重ねることでわかってきた。「ありがとう」の重みが変わってきた。しっかり、この「ありがとう」は伝わっていると感じる。人としての成長をさせてもらって本当に有難いと思う毎日。

これから

応援してくれる方々の為にも「GUNちゃんが成長して良かった。」と思ってもらえるようになるのが一番のお返しだと思う。スタジオ録音が苦手だったけど、今回のアルバム制作ではかなり成長できた。自己確認→次へのステップ・実行のためにも、CD制作はやり続けるべきことだと思う。そして、福岡でライブ活動をやっているのと同じように、日本中で世界中で仲間と音楽でつながり、創造して発表し続けていきたい。有名になることを目指しているわけでなく、人と出会い、刺激しあい、音楽を通して小さな点が線になりいつでもどこでもライブや制作ができる状況を作っていきたいと思う。どの国でも、街で流れてきた歌を「GUNちゃんの歌やん」と言ってもらえるように・・。

終わりに

超前向きで自信に満ち溢れているようにみえるGUNさんは実は謙虚な部分もたくさんあった。しかし、その「自信の無さの滞在時間」は凡人より極端に短い。向上心の塊のようなGUNさんの言葉から、未来の進化を感じさせられた。その事を伝えると、「1か月前の曲もどうかと思う。その間に気づいた事があるから。でも割り切って、次に進みます。」今日の歌と、来年の歌に違いが生じていく事が容易に推測出来た。自分に厳しく、そして地に足のついた進化をし続けるボーカリストがGUNkondoだと言える。

文:MARI OKUSU 2017.6.7掲載
(Photo by 雨宮康子)