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第24回

ひとSTORY

森下香蘭さん(ヴィオラ奏者)

森下香蘭さん(ヴィオラ奏者) 森下香蘭さん(ヴィオラ奏者)

ヴァイオリンより少し大きいサイズの弦楽器ヴィオラ。女性の声に一番近いと言われ、母の声のような温かい音色は決して派手ではないが人々に癒しをもたらす。 ジャズの環境で育ち、東京音大でクラシックを学び、現在福岡を拠点に活動するヴィオラ奏者森下香蘭(からん)さんに今回はインタビューをさせていただいた。

生い立ち

千葉県我孫子市生まれ。父はアルゼンチンタンゴの指導者。母は作曲家。2つ年上の兄はプロスキーヤーと多才な一家の長女として生を受ける。母はピアノ教師でもあるが、ジャズコーラスやシャンソンを教え、父はコントラバスで芸大の別科を目指していた事もあり、兄はピアノや作曲を学んでいた音楽一家。大きな存在である母からは「あなたは音楽の道でいきなさい。」と導かれ、幼稚園でも「将来の夢はピアノや音楽の先生」と答えるように言われていた。また、叔母はプロのジャズハーピスト奏者、父はジャズベース、母はジャズピアノを演奏し、ジャズセッションが頻繁に行われる家に育つ。そして珍しい楽器(ハープ)でジャズを演奏する叔母に影響を受け、憧れを持っていた。

楽器そして葛藤

3歳からピアノを始め、4 歳にして自分の意志でヴァイオリンへ転向。フォルムに惹かれて選んだものの、音を出すのは難しく、当初は「いつでもやめられるだろう」と気軽に考えた。しかし休日に遠方で行われるレッスンで友達とは遊べず、ちょっぴり後悔しながらも練習に励む日々。またヴァイオリン教室では、芸大でも教鞭をとる先生からの指導の為、生徒のレベルも高く、「ちゃんとやらないと恥ずかしい」というのがモチベーションだったが、その中での比較や干渉には辟易していた。「いつかは他の事をしてやろう!」と密かに機会を狙ってもいた。「やりなさい」と言われるのが本当につらく、「自由になりたい」というのが本音だったかもしれない。続けてこられたのは母のお陰と今では感謝しているが、当時の心中は複雑そのもの。そして独学で続けていたピアノは干渉されなかったので、かえって好きになる。小、中学校でのピアノ伴奏はいつも白羽の矢が当たり、楽譜が無くても曲を作るように演奏する事も楽しく、高校受験を決めるまでにピアノに触れる時間は多かったと思う。

ヴィオラとの出会い

小6の時、ヴァイオリン教室の発表会でヴィオラ2名が参加する弦楽アンサンブルがあった。形はヴァイオリンと似ているのに、温かい音色を出すヴィオラに心惹かれる。この時がヴィオラとその奏者が気になり始めたきっかけ。また、ヴァイオリン教室は芸高、芸大へ進む人が多い中、たまたま先生から「ヴィオラへの転向」を提案され、「これだったら、頑張れるかも!」とピンとくる。そして14歳でヴィオラへ転向。一気に世界が変わり、自分の意志と深く認識する事で、俄然やる気が出てきた。皇太子と同じく故浅妻文樹氏(東京芸大教授)に師事。

高校時代

東京音楽大学付属高校を受験して合格。兎束俊之氏(東京音楽大学器楽科教授。同じく皇太子も師事された)に師事。中学時代との違いはクラスメート全員が楽器が演奏出来て、遊びで編曲(アレンジ)した曲を皆で歌って、楽しんでいた。そして高3の時に授業で与えられたテーマで作曲し、褒められたのが嬉しく、「いつかオリジナル曲を作れるかも」とイメージさせてもらった。また「クラシックをやりなさい」と親に言われて反抗し、クラシックから距離を置きたくて、聴く曲もクラシックどっぶりではなかった。海外に憧れていたので60年代のオールディーズから入り、ダイアナ・ロスやホイットニ・ーヒューストンなどの洋楽をよく聴いていた。

大学時代

東京音楽大学器楽科ヴィオラ専攻入学。入学後、父にジャズ理論を習いに行きたいと話したが却下される。またサークルに憧れ、早稲田大学のソウル研究会と変わった所を選び、そこでマーヴィン・ゲイやアースウインド&ファイアーなどのソウルミュージックを聴くようになる。大学4年の時には豊嶋泰嗣氏(本来ヴァイオリニストだが、室内楽ではヴィオラを演奏。現在、新日本フィルやサイトウ・キネン・オーケストラ他にてコンサートマスターを兼任)に師事。

CDデビューそして結婚、出産

大学在学中にピア二ストの友人に「ポップスのヴィオラを弾く人を探している」と紹介され、島田恵withクララ(ヴァイオリンとヴィオラ)名でユニットを組み、‘95年キングレコードからCDをリリース。そして学生時代から演奏で福岡へ度々通っていたが、半年間の遠距離恋愛の末、23歳で福岡在住の方と結婚。福岡へ嫁ぐという事は、希望していたスタジオ関係の仕事が出来なくなる事を意味していたが、恋は盲目。その時は愛や新しい環境への希望が勝利を得た。翌年に長女、二年後に次女を出産。(現在、長女は東京芸大在学中のチェリストで、次女もクラリネットで音楽を志す。)

闘病生活

ベビーシッターや県外の親戚に子供を預けながら、妻、母になっても精力的に演奏活動を続けた。6年後、諸々の理由で、娘たちを一人で育てる決断をする。そんな中、股関節に痛みを感じ始める。病院で変形性股関節症と診断された。その間、‘06~’07年福岡県・江蘇省友好交流事業で福岡県音楽交流団として南京にて演奏。‘06年には響ホール室内合奏団のメンバーとして韓国公演にも参加。それまではオーケストラのクラシック中心に活動していて、やりたかったポップスやジャズ系をどう展開したら良いか思いあぐねていたが、中国での活動をきっかけに他ジャンルの音楽家と出会い、演奏するジャンルの幅が広がっていった。海外の演奏活動など「これから」と言う時に何かあったらと不安が決断を鈍らせ、5年間だましだまし痛みをこらえて過ごした。しかし、足の痛みは最後にはスーパーマーケットで車椅子を使うまでに悪化。重い腰を上げ、‘10年人工股関節装着手術を受け、成功。入院中は考える時間があったので、曲作りも行った。そして退院二週間後に杖をついて本番を迎え、リハビリを経て普通に歩けるまでに回復した。また闘病中は足の痛みがひどかったので、人との交流も控えていたが、回復してからは友達の輪も広がり、応援してくれる人も増えていく良い転機になったと思う。

これから

2014年12月にオリジナル作品を残したいという思いでCD「Karan」をリリース。これからも定期的にオリジナル曲を発表していく予定。2016年12月には今まで支えて下さった方への感謝の気持ちを込めて20周年記念コンサートを開催。また着物で演奏する和装デュオMUSEの活動や、現役音大生チェリストの長女との親子デュオも昨年実現。今後は次女を含めたファミリーコンサートを計画している。またフリーでオーケストラ、室内楽、ソロまたはジャズ、邦楽とのコラボ、アーティストのサポート等あらゆるジャンルでの活動を継続予定。

終わりに

「私の人生を表現しやすいのはヴィオラかもしれない。ヴィオラの音色も知っていただき、私の人生も知っていただきたい。そしてヴィオラの音色をもっともっと広めたい。ヴィオラに出会えたから、広めようという使命にも出会えたと思う。」と香蘭さんはインタビューを結んだ。

・・・自分らしさを模索し続けてきた心の葛藤や困難を乗り越えてきた人生は文字で表すよりも壮絶だったと思う。しかし、困難が起きてもいつも誰かが手を差し伸べてくれる強運さを持ちあわせてるようにも感じた。ぜひヴィオラと共に多くの人に知っていただき、癒しの音色を届けていただきたい。

文:MARI OKUSU 2017.1.27掲載