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第23回

ひとSTORY

松本かつひろさん(SSW)

松本かつひろさん(SSW) 松本かつひろさん(SSW)

アカペラと言う言葉さえ日本では馴染みがなかった90年代終わり、佐賀から生まれたアカペラグループは福岡を中心にプロとして活動範囲を広げていった。まだゴスぺラ―ズもデビューしていない頃の話。そこから旅立ち、昨秋初ソロアルバムを発売した松本かつひろさんにお話を伺った。

10代で出会った音楽

久留米市で生まれ、育ったのは唐津市内。中学時代に一番聴いた音楽は長淵剛さん。高校に入ると美空ひばりさんのベスト盤を買って繰り返し聴いた。歌の上手さはもちろん、エンタテイナーとしてとても魅了される。その後はイギリスのミュージシャン、スティングの曲も大好きだった。友達とたまにカラオケへ行き、歌を褒められた記憶はある。

アカペラとの出会い

1996年19歳で就職したのは佐賀市のガソリンスタンド。仲良くなった同僚はTOTOやQUEENの曲をバンドで演奏していた。仕事終わりに一緒にカラオケバーに行き、「歌上手いね。」「そんな事ないですけど。」「何かしてた?」「いや全然してないです。」そんなやり取りをしながら。そうこうする内に、そのバンドは楽器を置き、歌声だけの形態に。それが、mo'better (モアベター)と言うアカペラグループ。20年前と言う事もあり、「アカペラって何ですか?」「一度練習場に聴きにくれば?」 生まれて初めてアカペラを生で聴いた感動は「スゴイ!!」の一言だった。

mo'better 加入

メンバーの一人がすぐに抜け、代わりを探していた彼らから声がかかる。「無理です。」「大丈夫、大丈夫!一週間後初ライブだから!」否応なしに加入決定。医大の学祭でのライブは無事終了。他にもイベント出演や音が響く場所としてアーケードを選び、輪になってアカペラで歌うストリートライブの回数を重ねていく。徐々に活動の場は福岡、熊本など九州の他県にも広がっていった。最初は自分達が楽しくて歌っていたのが、事務所がついてのプロ活動となる。メジャーデビューの話もあったがその流れにはならず、所属していた三年の間には年間200本以上のライブを行い、何千人の前で歌う経験もした。

SO.時代

1999年グループ脱退後、翌年拠点を福岡に移す。当時は楽器も弾けなかったので、キーボードとのデュオとして演奏活動を始めた。当初は“SO.”と言う名前をソロのアーティストネームとして使用していたが、編成の変更に伴い、ユニットの名前へと変わっていった。サンセットライブやブルーノート福岡でもライブを行いながら、2~3年経った頃には自主版のCDを携え、東京へ売り込みに行く。平井堅などR&Bの男性ボーカルが世に出て来た頃でメジャー所からも声がかかった。しかし、楽曲を作り、歌を歌い、ライブする事は出来たものの、当時は交渉事など戸惑う事も多かった。大きいバッグとギターを抱え、東芝EMIやビクターなどのメジャーなレコード会社の受付の女性にCD‐Rを配る毎日。プロフィールやアーティスト写真を添える事やそれなりの部署のそれなりの役職の人に封書で送ると言った発想はその時は思いつかなかった。とにかくただ一生懸命な毎日。「東京でどうやっていけるのか?」と自らに問いかける事も度々あった。福岡と東京を往復する日々は続き、2004年 東京のあるレーベルとフジパシィフィック音楽出版からファーストアルバムCD「NEW AGE UN SOUL」リリース。2枚目のアルバム「Mellow Yellow」やマキシシングル「ミチスジ」発売とコンピレーションアルバム参加なども行う。そして2008年に“SO”活動休止。最後は固定メンバーでバンド形式をとり、全国ツアーも精力的に行っていた。

ソロ活動

2008年松本かつひろとしてソロ活動を始める。色んな人のお陰でやって来れたと思う。しかし、振り返って見ると音楽のみの人生。別の事で自分の力を試してみたくなってきた。ちょうど30歳になった頃。自主レーベル「ROCK DESIGN WORKS」を立ち上げたり、デザインやイベントの仕事を始める事にした。CDが売れる為にとがむしゃらに過ごした20代。現実と言う名の壁が見えてきた30代。多くの人に訪れるだろう気持ちの揺れが自分にも襲ってきた。歌は歌っていく事は決めていたが、歌をメインにしていくイメージではなかった。ライブや全国ツアーもやり続けていたものの、CDを作る時間は無かったし、力も湧いてこなかった。「自分は何をしたいんだろう。自分はどうやって生きていけば良いんだろう。」そんな自問自答を繰り返し、日々の中で「自分の本当」を探す時間となっていた。

ソロアルバム発売そして野望

そして2015年に40歳の節目を迎え、突発的にソロとして初めてのアルバムを作る事を決めた。色んな寄り道をして気づいた事は「自分は音楽をやりたい!!」そして自然な流れで「CDを作りたい!!」満を持して制作したフルアルバム「人生はハッピーであるべきだ」無事完成。『様々な先輩、後輩、同世代ミュージシャン。改めて視野を広げてみると、メチャメチャ魅力的で、素晴らしいミュージシャンがたくさんいる。それを「(ビビってしまい)自分なんて」と思うのか「頑張らないかんと奮い立たせる」のか。客観的に見ると今までの自分はビビってその立ち位置に立ちきらないでいた。今からはこんな素晴らしいミュージシャンがたくさんいるなら、自分の音楽をもう一度、東京でCD-Rを配っていた時のように、やれる事をとにかく必死にやろうと思う。それをやっていたら、もっと良いやり方があるのに、、、とか、動けば動く程色んな意見が出てくると思う。それも覚悟の上で。波風が立つから舟も進むと思う。当たり障りのないやり方はスピードも遅いし、行く場所も限られてくる。音楽をすると言う事はそう言う人生だと思う。今回のアルバムは、メンバー、スタジオなど色んな方にお世話になったり、ジャケットも山善(山部善次郎)さんに書いてもらったり、自分なんかにはもったいない状況がたくさんあった。それは1人1人話に行って、「こうしたい」と自分の思いを少なからず伝えたから、何かが伝わって、協力や胸を貸してもらえたと思う。CDを売る事で多くの人に知ってもらい、色んな人に歌を聴いて欲しい。もう一度自分の名を世に売っていきたい。「松本かつひろ」を知っている人の比率をもっと増やしていく事が今、自分の音楽を応援してくれる人の気持ちに応える事になると思っている。まずはそこから。』

そして最後に夢について尋ねてみた。『ミュージックステーションに出てタモリさんに会いたい。共演したいミュージシャンは奥田民生さん。これは夢。福岡で何千人規模のライブが出来るようになったら良いな。これは夢と言うより野望。』

終わりに

自信満々な部分と相反するように自分にも厳しい面もあり、その二つが今の精力的な活動のエネルギーになっているように感じる。初めて聴いた人の心に何かを残す、その歌声にぜひ一度触れてみていただきたい。

文:MARI OKUSU 2016.2.24掲載