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第★回

ひとSTORY

原田迅明さん(ジンメイプロジェクト・ドラマー)

原田迅明さん(ジンメイプロジェクト・ドラマー) 原田迅明さん(ジンメイプロジェクト・ドラマー)

12代続く医者の家系に生まれた現役の麻酔科医。独学で学んだドラムの腕は18歳でサックス奏者渡辺貞夫さんからプロ入りを勧められるも医学の道へ。スティックを握って40数年。国内外の名だたるアーティストとの共演経験も持ち、今年4月だけでもライブ本数は13本。精力的にライブ活動を続けられるJAZZドラマー原田迅明さんにお話を伺った。

楽器との出会い

喘息を患うもやしっ子が楽器と出会ったのは幼稚園の先生がオルガンを教えてくれた時。レッスン仲間が女の子だらけなのが恥ずかしくて辞めてしまった男の子だった。家にもピアノは無かったし、赤いバイエルの本は1/3進んだところで閉じられた。

小学校時代

小学校でオール5を取れない理由はたまに体育が4になってしまうから。運動神経が無いのがコンプレックスで何かで自信を持ちたいと探していた。4年生の時、同級生から聴かせてもらった “ベンチャーズ”や“ビートルズ”の影響を受け、初めてドラムスティックを握る。バンドの中でドラマーは一番動くし、身体をバラバラに動かすには運動神経が必要に違いない。ドラムを練習する事で運動神経が良くなり、恥ずかしがり屋の自分でも自信が持てるだろうと期待した。とはいえ、ドラムセットを親には買ってもらえない。そんな時に母が音楽だけにのぼせないようにと「テストで100点採ったら100円あげる」特別お小遣い制を提案し貯金を始めた。また喋るのも歌うのも苦手だったが、楽器は喋らなくても代弁してくれるのも気に入ったところ。“ビートルズ”より “ベンチャーズ”が好きだった理由は“ビートルズ”に限らず言葉を使う演奏より“ベンチャーズ”のように音だけで表現する方が相当難しいと当時は思っていたから。ただ今はやはり“ビートルズ”も凄いと感じている。

中学時代

私立西南学院中学入学。地道に貯めたお小遣いでパール製の一番安いドラムセットを29,800円で購入したのは1年の時。レコードをかけ、それに合わせて見よう見真似でドラムを練習。家は天神のど真ん中の一軒家。当然防音などはしていない。来る日も来る日も民家で練習。最初は歌謡曲(いしだあゆみ、加山雄三など)に合わせて叩く事から始めた。カセットテープレコーダーが世の中に誕生したかどうかの時代、ステレオで何度も何度も針を戻してはコピー。「レコードと同じように叩ければ良いな。」とレコードは先生でもありライバルでもあった。中学3年当時、ドラムの教則本は一冊しかなく、最後のページにだけ「JAZZ」と書いてあった。そのリズムは難しく、POPの世界にはないように感じる。「JAZZって何だろう?」と興味を持ち、その後「10大JAZZドラマーのオムニバスアルバム」(エルビン・ジョーンズ、バディ・リッチ他)を全部コピー。それがJAZZとの出会い。ブラッド・スウェット&ティアーズ(フュージョンのバンド)やラテン、クラシックなども練習した。当時はJAZZのアドリブなどわからずに曲を聴いて全てをコピー。斜め前にあったJAZZ喫茶“COMBO”のマスター(故有田平八郎さん)の耳にもその練習音は日々聴こえていた。ある日“COMBO”を訪れたピアニスト辛島文雄さんが「ドラムをちょっと聴かせて欲しい。」と原田家の玄関の戸を叩いた。この時、音の主として詰め襟の学生服の中学生が登場し8歳年上の辛島さんはひどく驚いたと言う。ようやくドラムのお陰で自信がついてきた頃の話。

※辛島文雄さん:九州大学在学中から演奏活動を始める。「ジャズ・ジャイアントと謳われたエルビン・ジョーンズ(Ds)のジャズ・スピリッツを継承する日本人ミュージシャンの第一人者であり、ワールドワイドにも、我が国のトップ・ピアニストとして広く知られている(公式HPより抜粋)」

高校〜浪人時代

福岡県立修猷館高校入学。バンドは2つ掛け持ち。1つは辛島文雄さんとのバンドで、もう1つはサックスの大谷経二さんと。(しばらくして辛島さんは渡米し、現在まで「世界の辛島」と呼ばれるまでに活躍している。)高2の時に「修猷館の学園祭でJAZZの喫茶店をやろう!」と同級生が企画。バンドメンバーは、当時福岡高校生の内田浩誠さん(ピアノ)升井一朗さん(ベース)新島さん(サックス)を呼び、小学校からの無二の親友、飯尾通利さん(トランペット。後にドリカムのサポートなどで活躍。)を加えての5人。この日は内田さん、升井さんと原田さんが初めて顔を合わせた記念すべき日。修猷館の制服を全員に着せたJAZZバンドは演奏が凄過ぎて客席は誰も動かなかったと言う。(この話は若気の至りと時効という事でお許しいただきたい。)その後内田浩誠さんがバークリー音楽大学へ留学し(卒業後ヘレンメリルJapanツアーでプロデビュー)、大谷バンドには岩崎大輔さんが加入。その後、フュージョンバンド“MCQ”結成。(米のJAZZバンドMJQを捩ってModern Crossover Quartettoの略)ピアノ岩崎大輔さん(後にバークリー留学後プロの道へ)、ギター緒方裕光さん、ドラムは木下恒治さん(共に後にプロ)と二人交替で担当。オリコン主催のコンテストで入賞も果たす。また妹の為に購入されたピアノが放置されていたので、アイドル雑誌の付録の歌本を見て歌謡曲をピアノで弾く事も。特に作曲家筒見京平さんの曲のコード進行がお気に入りだった。18歳の時には日本ジャズ会の代表でもある渡辺貞夫さんからプロ入りを誘われるが、12代続く医者の家系の本家の長男。心が揺れるも医の道に進む決意をする。しかしまだまだ音楽に熱中していた為、勉学が疎かになり、浪人生活へ。9月からは外出もせず、音楽を聴く事も演奏する事も6カ月間封印し、受験勉強に没頭した後に晴れて合格。

大学〜勤務医時代

福岡大学医学部入学。音楽活動を復活し、メンバーはベース升井一朗さん(歯科医)、ピアノは川嵜弘詔さん(当時九大医学部生)。医者揃いという事でCOMBOの有田さんが“Doctors”と命名してくれた。‘82年医学部を卒業し、勤務医となる。その後も活動は継続し、‘89年九州アマチュアビッグバンドコンテストで優勝した“High Notes Big Band”と“Doctors”の両バンドで“よかとぴあ博”に出演。翌年“High Notes Big Band”で「High Notes」と“Doctors”で「Greeting」合計2枚のCDを発売したが、直後に川嵜さんが米国マサチューセッツ工科大学へ留学の為、“Doctors”の活動は休止。しかし当時ジャズ評論家の大御所油井正一さんからは光栄にも「Greeting」に対して高評価をいただく。その後バンドとしてはしばらく空白の時間が過ぎ、自分のバンドをまた作りたいと思っていた‘92年岩﨑大輔さんが拠点を東京から福岡に移した事もあり、升井一朗さんと三人で“ジンメイ・プロジェクト”を結成。

勤務医から開業医へ

‘93年内科・麻酔科として開業。“FJQ(福岡ジャズカルテット)”や“ジンメイ・プロジェクト”等での演奏だけでは飽き足らず、度々上京しては関連医学会に昼間出席し、夜は辛島文雄さんを中心にライブハウス等で演奏。また’96年5月には、ジャズの本場ニューヨークのライブハウスで一流ミュージシャンとも共演。その際、意気投合したベーシストから“医師とジャズピアニスト”を両立させているDavid Janewayさんを紹介される。帰国後Davidから手紙とCDが届くが、お互いよく似た環境下で共感する事も多く、大変勇気づけられた。 同年8月には辛島文雄さん、ベーシスト荒牧茂生さんとニュージーランドに於いて親日ライブツアーを行い絶大な評価を得る。ワーキングビザでの入国で、この時の職業欄は、“musician”。帰国後ニュージーランドより感謝状が送られた時は感極まる物があった。そしてCD制作にも意欲的で‘98年“ジンメイ・プロジェクト”のファーストアルバムを発表し、’01年にはポリドールからのメジャーデビューアルバムとして「メモリーズ」、‘13年「Urge」をリリース。

これから

今後の夢について尋ねた。「夢は大体少しずつ叶えてきたので、他には健康で(今の状態を)維持する事。やりたい事をやる事と言うのが夢になるのかもしれない。小さい頃は身体が弱かったのでこの年までやれるとは思っていなかった。腰はヘルニア、他には50肩などの持病もある。ドラム演奏に支障をきたすので、対策も兼ねて歳を重ねてからの方が逆に練習量を増やした。やっていないと衰えるというのもあるが、出来る限り毎日レコードを聴きながら練習するようにしている。昔わからなかった一流ミュージシャンの気持ちも経験や成長と共にわかるようになり、一緒に出来るようになってきた。ストレス発散の為にも、年齢の続く限りやりたいと思っている。しかも音楽をする事で体調の悪さを鎮静化させる役目を果たしている。医学的にも楽器をいじる事でボケ防止になる。音楽にはすごい力があるし、音楽だけは裏切らない。音楽は世界共通言語だから、自分がそれに携わっていて良かったと思っている。医者になる時もドラムと音楽だけは絶対やめないで、やれる所までやってやろう。世界一のアマチュアになってやろう!と思って続けてきた。好きな事をやれるというのは良い!すごい人はいっぱいいるからまだまだだけど、歳を重ねて良かったのは経験で見えたりわかってきたりする事かな。そして音を聴いて「これは原田迅明の音」とわかってもらうと嬉しい。目指しているのはエルビン・ジョーンズやトニー・ウィリアムスなど個性あるドラマー。ドラムの基本は「太鼓持ち」。「せぇーの」のタイミングを教えてあげるのが太鼓持ち。基本は共演する人が歌いやすいように、弾きやすいようにとか。ドラマーは指揮者でもあるのかもしれないな。」

また最近は若手とのセッションにも積極的で、福岡のジャズミュージシャンの登竜門として、自らの持つ豊富な経験と知識を惜しみなく注ぎ、多くのミュージシャンから慕われている。それでも「まだ自分は発展途上だ。」と自己評価。

終わりに

10歳の少年は試行錯誤ドラムの音と向き合っていた。このやり方は現在も継続され「人から与えられた物ではなく、自分で開拓して得た情報はかけがえのない財産になっている。」と仰るのも頷けた。

「実力をお持ちで努力もなさった上での世間からの評価と思いますが、色んな縁を引き寄せたり、導かれる運も持っていらっしゃるように感じる。」と伝えてみると「時々ドラムを自分で叩いているというよりは叩かせてもらってる気がする時もある」とご自身でも不思議な感覚をお持ちのようだ。「諦めないからかな?」と最後にポツリと仰った。音楽の神様がいるとすれば、正に神様に選ばれた方なのではないかと帰り道に空想してみた。

文:MARI OKUSU 2014.7.26掲載

(過去共演したミュージシャン)※本文以外の方、敬称略)
伊藤君子、日野皓正、本田竹廣、金澤英明、石井彰、山口真文等