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第★回

ひとSTORY

一木弘行さん

一木弘行さん 一木弘行さん

初めて名前を聞く方も、一木さんの作った曲を耳にしない日はないかもしれない。

長年CM曲制作に携わり、ジャパネットたかたではVo.と演奏担当。健康家族にんにく卵黄、さかえ屋南蛮往来等々は一木さんの作品。

「TIME MAGIC 肥前夢街道イメージソング」で31歳の時に“ONE SHOT”名義でCDメジャーデビュー。2005年からはASKAさんのソロツアーでバッキングボーカルを担当。

普段はご自身で経営する音楽学校「FOREST(フォレスト)」の他、大学、専門学校でも教鞭をとり、生徒達には「先生」ではなく「ティチャー」と呼ばれている。

そんな気さくな一面を持つ一木弘行さんに今回はインタビューをさせていただいた。

幼い頃

基地の町佐世保でFEN(洋楽がずっと聴けたラジオ番組)を聞いて育つ。11歳違いを筆頭に4人の姉を持つ一木家唯一の男子。姉は全員ピアノやヴァイオリンを弾き、父も我流ではあったがヴァイオリンを奏でる、音楽に囲まれて育った幼少時代。小2からピアノのレッスンに通う日々が始まった。

音楽との関わり

カセットが販売される前の時代に一木家ではオープンリールのテープを所有。姉の影響で5歳頃からThe Beatlesのシングル“ロックンロールミュージック”、“ロングトールサリー”を聴いていた。姉がFENをエアーチェックし録音したサンタナ、ツェッペリン(Led Zeppelin)を繰り返し聴き、洋楽にやたら詳しい11歳の少年だった。また映画「エレキの若大将」(加山雄三主演)に衝撃を受け、グループサウンズ、中でもジュリー(沢田研二)が好きだった5年生の時、リアルタイムで映画"Let it be"に出会う。「バンドってカッコいい!The Beatlesってカッコいい!」同時期に友人の兄からツェッペリンを紹介され、Rockをやりたい!と目覚めた。小6の時「クラッシックを辞めます!」と先生に伝えて、理由を問われ「無から有を作り出したい。クラシックは誰でもできるでしょ?」と説得。「ピアノを毎日弾く」約束でピアノのレッスンを辞める。(この後高3まで毎日弾き続けた。)まずは家にあったガットギターでショッキングブルーのヴィーナス等をコピーする事から始めてみた。

中学時代

中学に入りやっとエレキギターを買ってもらい、ツェッペリンをコピー。同じ頃ギタリストとしてバンド活動を始めたが、中2の時に指を怪我した為早々とギタリストを断念。それをきっかけにボーカルを担当し、見よう見まねで作詞作曲も始める。詩人みつはしちかこの「恋はどこから」と言う詩に曲をつけたのが最初。その後自分で詞を書くようになるが、曲を作る人なんて周りにいなかったので、とても喜ばれる事が嬉しかった。中3になってYAMAHA主催のPOPCON(ポピュラーソングコンテスト)へのチャレンジが始まった。

高校時代

高1からはPOPCON九州大会の常連に。第12回の九州大会ではデビュー前の長渕剛さんもエントリー。つま恋本選会(静岡で開催された全国大会)には九州の応援団として現地にも足を運んだが、高3の時は受験に専念。その受験まっただ中の時に事件が起こった。福岡大学受験の翌日、実家が火事になり全焼。大学進学を断念しようとするも、仕送りをしないと言う約束で福岡へ旅立った。

大学時代

福岡大学へ入学し親戚宅に身を寄せるが、数カ月後叔母が病気を患いアパートでの1人暮らしに。大学近くの喫茶店GUILDで「30分皿洗い30分歌う」時給350円の生活も同時に始めた。19歳の時にレコード会社の目にとまるが、高校の時に録音したデモテープがきっかけでソロデビュー決定。自分を気に入ってくれたディレクターはその時鈴木茂(元はっぴいえんど・元ティンパンアレーのギタリスト)も担当していた方で一木さんのバックも憧れていたティンパンアレー(松任谷正隆、鈴木茂、細野治臣、林立夫)に決定。しかしCMソングのレコーディング等が終了していたにも拘わらず「一度リセットして再度バンドを組みたい」と大学の仲間に声をかけ”ラズベリースロープ“の原型を作る。20歳になってすぐの頃の話。ディレクターは「気長に待っておく。」と言ってくれたが、その後次第に連絡を取らなくなった。1年後にバンド名”ラズベリースロープ“、楽曲「ShyナBoy」でPOPCON九州大会優秀曲賞受賞。翌回に楽曲「GET AWAY」で九州大会グランプリを受賞し、つま恋本選会(全国大会)へとコマを進めた。

大学卒業後

23歳でバンド”スラップショット”を結成し、2年程活動した。バンド後期に自主制作でシングルを発売し3000枚を売り上げ、某レコード会社からデビューの話が来る。レコード会社からは「君は一段下がってキーボードになり、新しく別のボーカルを入れて、スラップショットでデビューしよう」と言う提案。デビューする為、バンドのメンバーの為にもと曲作りをやってきた。しかし、会社からの提案を目の前にすると「そこまでして自分はデビューしたかったのだろうか?」と疑問が湧きバンドを解散する。一木さんは大学4年頃からギター、ピアノ、ベース、ドラムの講師をしていて、26歳の時にボイストレーナーにもなり、バンド時代の友人と共にCMやイメージソング等の仕事も始め、再び音楽に対する情熱が湧いてきたと言う。

ASKAさんとのご縁

大学時代POPCON全国大会の二回目で賞が取れなかった時、九州組の打ち上げでASKAさんが肩を抱いて言ってくれたセリフ。「一木、次に必ず出てくるのはおまえなんだから、くさるなよ。いつか一緒にステージに立とうぜ。絶対諦めるなよ!」その言葉が後々までもすごく支えになった。そのお陰で音楽を止めなくてすんだとさえ思っている。(しかしASKAさんはこの時の事は全く覚えていないらしい(笑))

25歳の頃先輩の岩切みきよしさんに誘われASKAさんと3人で飲んだ事もあるが、その後特別関わる事はなかった。そして15年程経った2000年のある日、「今日はキャナルシティにASKAさんをゲストに迎えてお送りします。」とカーラジオから聞こえてきた。すぐにキャナルへ向かってみると知合のディレクターから楽屋へ通されASKAさんとしばらくぶりに話が出来た。この日をきっかけにASKAさんのツアーの時に楽屋やホテルで頻繁に会うようになる。2002年にはCHAGE&ASKAのアルバムレコーディングにコーラスで3曲参加。2005年12月からのツアーにも参加する事に。2012~13年のASKAソロ「ROCKET」ツアーにも参加。

正負の法則

中洲でバイトをしていた21歳の頃、お客さんからウィスキー1本をストレートで飲むように強いられ、急性アルコール中毒で顔面神経麻痺になる。POPCON九州大会1週間前の出来事だった。顔の右側が麻痺し、言葉も鮮明に伝えられず、サングラスで症状をごまかす日々が続く。もちろんつま恋本選会やTV出演時も。病院で麻酔薬を半年以上毎日打ち続け、地獄のような日々を過ごした。一生このままとしか思えない時期もあった程。しかも30年以上経った今も「押さえるとまだ痛い」後遺症は続く。27歳の時に大病を克服。40代になり年間10回程救急車で運ばれたり、さらに大病を患ったが、平均3時間睡眠の今でも普通の人以上に元気に活動している。しかし何より喘息持ちであるにも拘わらず、歌が歌える、楽器が弾ける、ライブができる、おまけにたくさん出会えた人がいて、音楽を通じて幸せな気持ちになってくれている人がいる。自分が成長する事によって、見える風景が変わる事を知ったと言う。

生徒達に伝えてる事

僕達プロは例えるなら500色の絵の具を使って絵を描いているようなもの。12色の絵の具でももちろん描けるけれど、感性も磨きながらアカデミックな事も勉強しながら融合していくと、いつか自分の限界を超える事ができる。そしてその道のプロに、一流になれば必ず「一緒に仕事しましょう!」と手を差し伸べてくれる人が現れると言う持論がある。そして「一緒にいて気持ちの良い人」にならないと、多分仕事は来ない。だから一木さんは弟子や生徒達、若者達にこう伝えている。「徳を積みなさい。」「毎日が修行。」「弱い人を助けて、見て見ぬふりをするんじゃない。」「自分の親や先祖に対しての敬意を絶対に忘れてはいけない。」そしてラッキーと言う言葉を簡単に、軽く使ってはいけない。ラッキーは続かない。自分自身を磨く為に自分の出来る事を精一杯手を抜かないでやっていく。それをやっていけば、「見てる人は見てる。」と言う感覚を自分は持ってやっている。その見てる人とは天の上の人なのか周りの人なのかわからないけれど、それを忘れてしまったらいつか足元をすくわれる。きつい事を言うようだけれど、美人でも歌が上手くても才能があっても、嫌な人間だと思われたら仕事は間違いなく来なくなる。人間的な魅力がなかったら、ライブをしても人は来ない。曲についたファンは離れてもアーティストについたファンは離れない。「じゃあどうしたら良いんですか?」と生徒達は問う。「自分で考えろ。一から十まで聞くんじゃない。なんとかしろ。創意工夫してそこに辿り着かないとダメだ。一から十まで聞いていると独り立ちできなくなる。いつまでもいると思うな親と一木。(笑)」と常に言っている。そして「最低でも3年は修行しろ。」とも。

毎日「嬉しい。」と思いながら生きている。生きてるだけで儲けものだと思うし、自分は使命があり生かされていると思う。何度も死にかけて、「使命を果たせよ」と言われている気がしている。せっかくいただいた命なので本当に使命を果たそうと思う。大切なのは、自分が出来る事を心を込めてしてあげる事。大学の講義でも最初に言う。「僕は音楽を教えに来てるのではありません。僕は君達に幸せになって欲しいから来てるのです。」テーマは幸せになる事。幸せになる為には自分が幸せの境地、境涯にいる事。そしてその中で音楽をやる事。病気しても怪我しても良いから、それを乗り越えて、世の中の人に自分が出来る事は何かを考えてやる事に意味がある。1人1人が必ず役割を持って生まれてきているから、その役割をちゃんと見つめて自分が出来る事を精一杯やって生き抜け!いつ死んでも良いと言う気持ちで毎日を本当に一生懸命生きろ!と教えている。そうすると真実も見えてくる。可能性を信じていくこと。例えると若い頃、チューリップ、井上陽水、ディープパープル、ツェッペリンなど中学だけでも5~600曲をコピーし、高校時代は何千曲をコピーし、ユーミンもシュガーベイブ(山下達郎が在籍)、ローリングストーンズ等、ありとあらゆるアーティストのコピーをしまくった。やっていたらコード進行もわかってくるし、楽器の講師をした時でも既にコピー能力はあるので、アカデミックな事と融合したら引き出しをいっぱい作る事ができた。色んな可能性が広がってきた。作曲にも役立った。

さらに一木さんは続けた。日本語の美しさや日本人に生まれてきた美学が最近損なわれている気がする。昔の名曲(洋楽も良いけど、日本語の歌)もちゃんと聴いて、日本語の美しさと音楽の素晴らしさがわかった上で今の音楽をやるのと、昔の歌は古いと避けて通るのではかなりの違いが出てくる。結果として胸を打つか打たないか、そして自分が音楽を聴きたいと言う衝動にかられるか、何十年も聴きたい音楽を作れるか・・・そう言う事も生徒達に伝えている。無から有を作る喜びももっと教えてあげたい、音楽を通してワクワクさせてあげたいと思っている。

これから

今まで色んな方のアルバムプロデュースに携わって来られた一木さん。しかしご自身のアルバムはまだ産声をあげていない。念願のアルバムは2014年に完成予定。

そして残りの人生はどの位あるかわからないが今後の人生を考えた時に「恩返しの旅をしたい。」「会えなかった人にたくさん会いたい。」「今の生徒達をいっぱしのミュージシャンに育て上げたい。」等と願っている。自分の人生は色々な現象が起こってきたけど、いつも最悪の状態にはなっていない。また自分の音楽家としての使命は、音楽は本当に夢のある物で、音楽によって自分もたくさん救われてきた。そう言う人は世の中にもたくさんいるはず。音楽って深くてとても果てしなく謎めいた物であったりするけれども、自分の中から言葉やメロディを出す事で、聴いてる人達がひと時でも安らげたり、救われたり、勇気づけてあげられたりする事ではないかと思う。音楽をやめる事は決してないと断言する。

終わりに

前向きで底抜けに明るい印象を与える一木さん。生まれ持ったものだけではなく、見た目では想像できない試練を幾つも体験し、消化し、そこで学んだ生き方が核になっているように見受けられた。徳のご褒美を受け取って華やかな仕事の成果を幾つもお持ちだが、行動力、努力が人並み以上だと言う事を周りの方はご存知だろう。時々身体をしっかり休めていただきたいと切に願いつつ、おそらくこのままのハードスケジュールでまだまだ多くの人にパワーを与え続けて行かれる未来図が容易に想像できる。これからも一木さんとはCM、TV、CD、ライブ、多くの場所で出会える事だろう。

文:MARI OKUSU 2014.4.26掲載

参考:一木弘行さんのCM曲